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リーダーシップの定義


OO+ CHURCHをスタートする上で、これだけは人々にしっかりと分かって欲しいと思ったことがいくつかあった。

その中でも教会で常に強調したいと思っているのは「リーダーシップ」についての正しい理解だ。 以前のブログでも、世の中(社会)が 示すリーダーシップと聖書が示すリーダーシップでは根本的に違いがあるという事に触れた。世の中の企業や組織の多くは、「TOPDOWN」と言う考え方が 基本ということ。簡単に言うと、ある優れたリーダーのビジョンやアイデアを中心に、その目的に対して他の人々(従業員や部下)をどのように利用し、「仕え させていくか」と言う考え方だ。

聖書では、本来の正しいリーダーシップは逆だという事を常に強調している。リーダーが他の人々に仕えられるのではなく、リーダーが他の人々に仕えるという考え方だ。イエスは、もっと強い言葉を使ってこれを強調した。 「誰でも一番偉くなりたい者は、すべての人々の奴隷(仕える者)にならなければならない。」 (マルコ10:44) イエス自身が人々の罪を背負い人類を救うために仕えたように、俺たちも同じ態度で仕えることがリーダーシップだと断言した。

でもこの「奴隷」または「仕える」という言葉を聞くと間違ったイメージを持ってしまう場合があると思う。特に日本では、人々に振り回され、こき使わ れるような存在をイメージしてしまうケースが多くあるだろう。でもこれもまたリーダーシップの間違った考え方の一つだ。イエスは決して他の人間に振り回わ されたりするような導き方はしなかった。しっかりとした信念と価値観を持ち、同時に行動のすべてが「人々の為」と言う形で人々に仕えた。 実 はさっきのイエスの言葉は、弟子たちがある「リーダーシップのポジションをください」とイエスにお願いした時に言った言葉だった。弟子たちは、イエスにつ いて行けば「リーダーに(偉く)なれる」と内心考えてついてきていた。それに対してイエスは、「お前たちは勘違いしている。」とハッキリ叱った。リーダー のポジションに着くためにリーダーの行動をするのではなく、人々に仕えたいからリーダーシップを目指すのだ。 そして「仕える」ことはリー ダーと言うポジションになる前から、実践することができる。ある特定の成果を出しているからリーダーという称号を与えるという事はできるだけ避けなければ ならない。なぜなら人それぞれ「仕える」ことができる分野や形が違うからだ。もちろん教会が成長していくと共に、うまく人々のケアをする目的のためにある リーダーたちを任命し、システムを作って行かなければならないのは当たり前だ。でもそれはあくまで、人々を育てケアする「仕える」ためでなければならな い。同時に任命されたリーダーたちもそのような態度で導かなければならない。

OO+では、もちろんリーダーシップミーティングがある。でもこれを、「リーダー達のリーダーになるためのミーティング」には絶対にしたくないと 思った。逆にリーダーシップミーティング=「どのようにもっと効果的に人々に仕えることができるかのミーティング」にしたかった。リーダーになることが偉 大なのではなく、仕えることが素晴らしいからだ。

この原則はどんな分野でも同じだと感じる。「お客のため」を忘れて、利益と事業の拡大のみに集中し始めると、必ずと言って良いほどその会社は低下し ていき、人々の信用を失う。逆に、どんなに一般のやり方から見て矛盾で不可能と思われることでも、「人々の為」を忘れないやり方をしている企業は常に生き 残り、時代のトレンドに流されずに成功している。

「リーダーシップ」は、リーダー達の為にあるのではなく、皆が仕えることができる為にあると感じる。だからこそリーダーシップにできるだけ触れてほ しいし、リーダーでなくでもリーダーシップ(仕えること)を体験してほしい。だからOO+のリーダーシップミーティングは、教会のリーダー達だけではな く、教会の「仕えてみたい人」みんなに開放している。そしてそこで自分の能力や使命に合った「仕え方」を見つけ、最大限神様と人々に仕えて欲しい。それを ナビゲートするのが牧師としての責任だと感じている。 そしてある人は、OO+という形で長く仕える人もいれば、またしばらくして別の場所 や形(教会)で仕える人も出てくるだろう。でもそれまで責任を持って導いて、送り出せるのなら励まして送り出してあげたい。どのような場所や形でも正しい リーダーシップをもって仕えるリーダーを養成していくことは、今の日本の教会にあっては一番大切なことだと思う。そして彼らを解放していかなければ日本は なかなか変わることはできない。

この間、SNSであるこういう名言が投稿されていた。 「あなたの箱(ミニストリー・仕えること)は、中身のプレゼント(イエス)よりも重要あってはならないことを決して忘れるな。」 

結局、教会やミニストリーの役割は、人々にイエス(救いと神との関係)を提供し、守るためであって、ミニストリー(リーダーシップ・仕えること)や 教会そのものが、イエスと言う存在が薄れて、代わりに偉大になってしまってはならない。すべての教会のボスであるイエスが中心であるならば、教会は本当に 健康に成長し、そして健康な意味で「偉大」な影響力を持てると感じる。それと同じで、リーダーになることが、本来の目的である「仕える」ことよりも重要に なってしまってはならない。

もしみんながリーダーという立場にいるなら、もう一度自分のリーダーとしての本来の目的を考え直してみよう。人々の可能性を解放し、励まし、その人 と神様の為である「仕える」ためになっているのか。または人々をある特定の形や目的だけに制限し、必要がある限りだけ利用し、使えなくなったら捨てるだけ の「自分の目的中心」のやり方になってしまっているか。俺自身も常に確認し、本当のリーダーシップを持ち続けなければいけないと感じる。

日本人の心深くに刻まれた、「仕える心」を本当の良い形で発揮できるようにしよう!

ではまた。


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