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イエス、神様の完全なイメージ


ヨハネ1:18 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」

皆が良く知る、クリスマスのストーリーの最大の特徴は、馬小屋で赤子として生まれたイエスです。神という超越した存在が、処女であるマリアを通して「赤ん坊」として生まれる事にとても大切な意味があります。

こ こで言う「神をあらわした」という「表す」の言葉には、「覆いを取り除く・解釈する」というギリシャ語(exegeomai, 英語ではexegesis)が使われています。要は神が自分を表す為に、「赤ん坊」としてイエスとなりこの世にやって来たという事実には重要なメッセージ があるということです。そしてこの概念は多くの人にとってビックリする事でした。

旧約聖書では、神様は様々な形で人々に自分の存在を表しま した。ノアには洪水と大自然を通して、アブラハムには黒い雲を通して通り過ぎ、モーゼには燃える芝の中から語り、またシナイ山では嵐と雷の中から語りまし た。ヨナには海の嵐の中、エリヤには小さな囁きと同時に天からの炎を通して、また他の人々には恐ろしい天使の姿を通して、また地球を止めてまで神の力と栄 光を示してきました。どの場面も、神の栄光はとてつもなく超越している為に、私たち人間がそれに近づくことも、触れる事すらできない、神に出会ってしまっ たら死さえももたらす状況もありました。罪により神とは大きな隔たりがあり、完全な聖い存在と汚れた存在にはギャップがあり過ぎたからです。

そ のような神が「赤ん坊」となった。触れることも簡単にでき、抱っこも、手に取ることもできる。関係を持ち、一緒に過ごし、愛情とぬくもりを共有できる存在 です。怖く恐ろしく、栄光が強すぎて、近づくことができなかった神とは、全く別の側面をイエスは私たちにもたらしました。イエスによって、私たちは神様に 近づける、恐れずに関係を持てることを示してくれました。そして更に、その存在は弱く、壊し、殺してしまうこともできる存在となったことです。絶対に触れる事の出来ない神ではなく、人間のように壊され、殺されることもできてしまう存在に神自らなったのです。そしてその理由はイエスの人生と生涯に表れています。

結果的にその殺すことができる神であり人であったイエスを、私たちは十字架に張り付けて殺してしまいました。何も罪のない赤子とした生まれた存在、そして生 涯罪を一度も侵さなかった存在を、私たちの罪そのものとして十字架に掛けたんです。私たちは自分の全ての恐れと醜さを彼に押し付けました。人間の「弱さ」 なんていう軽いものではなく、人間の全てのドス黒い、醜く、邪悪なものをイエスは背負って、犠牲となって死んだんです。そして最終的には、唯一の神の子で ある存在が、神様との関係から切り離されました。十字架の上で、イエスが神に、「神よ。何故私を見捨てたのですか?」と叫ぶ場面があります。

多 くの人がこの箇所を読んで躓きます。「え?本当に神様はイエスを見捨てたの?」と聞きます。「何故そんなにひどいことを神様はするの?」と。私もそう以前 は疑問に思っていました。でも答えは「本当にイエスは見捨られた」のです。もっと重要なのは、「何故?」という質問です。そしてその答えは、「私たちの代 わり」です。

何故で私たちの代わりなんでしょうか?

本来、罪を犯し、神様と切り離され、見捨てられ、闇と痛みと、恐れと醜さ の中に生きるべきは私たち人間でした。イエスではなく、私たちが罪を犯したからです。でもイエスの目的は、自分自身がそのすべてを背負うことでした。だか らイエスの叫びは、本来「私たちが叫ぶべき叫び」そのものです。彼の体験した絶望感は、本来私たちが神様から離れてしまった結果、通るべき絶望感です。

私 たちの「なぜイエスが見捨てられたの?」という疑問は、本当にイエスの十字架の死と復活がまだ本当に何を意味しているのか心底分かって理解していないから 腑に落ちないんです。私たち罪そのものが、神様に対し、そして究極的にはイエス対して「ひどい」こととなっていることを理解していないからです。

私 たちは、「赤ん坊」そして「人間になる」という弱さを通してこの地上にやって来たイエスを理解する必要があります。十字架の酷さと醜さを目をそらさずに見 つめ理解する必要があります。そして心底悔い改める必要があります。イエスに対して本当に申し訳ないと心底感じ思う必要があります。そこに私たちの救いの 理解と、「良い知らせ」の始まりがあるからです。

同時に、イエスはその罪と死の中に留まらず、「生き返り、復活した」という事実を信じる必 要がります。神様はイエスを生き返らせることにより、イエスと一緒に私たちも神の子供たちとされること願っていたからです。私たちをずっと愛し、壊れた関 係をどうしても解決し、和解しまた共に永遠を生きたいと願ったからです。イエスの愛と力、そして彼の福音という行動そのものが私たちの絶望、恐れ、痛み、 虚しさと全ての問題の答えだと信じる必要があります。

最初の人間であった罪を犯したアダムから、伝染病のように私たちに全員に罪が広がったように、イエスという何の罪も犯さなかった最初の完全に聖い人間を通して罪を取り除くという最大の目的が、イエスの誕生と生涯にあります。

ク リスマスのポイントは、「神がイエスを通し私たちのもとに来て、私たちと生き、私たちの為に死に、そして私たちの人生の解決となるために本当に復活した」 という事実が歴史的に本当に起こったということです。イエスという存在には、神の神聖さ、強さ、偉大さ、恐ろしさと同時に、神の恵みと愛、優しさとぬくも りの両方があります。同じように、イエスという存在には、私たちの罪という現実、罰、苦しみ、痛みが現れていると同時に、そこからの救い、赦し、希望、開 放と癒しがあります。

イエスがその神様の永遠の昔からの計画そのものであり、完全な正義と愛の神様のイメージです。このクリスマスに、イエスを通して本当の神を知り、信じ、そして関係を持ってほしいと思います。

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