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何でも叶えられる祈り?


ヨハネ14:13-14 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

この聖書箇所は、もしかすると一番勘違いされてしまっている箇所かもしれません。「イエス様の名によって祈ります」って、クリスチャンは祈るときにいつも言うと思いますが、実際にイエスの名で祈るとはどういう意味なのでしょうか?ただそのように祈れば、何でも願いが叶うのでしょうか?

それを理解するためには、「イエスの名によって」の意味を理解しなければならないと思います。

次 の事を考えてみてください。警察官は、町や道である人が違法なことや住民に害を及ぼすようなことがあれば、彼らの持つ権限によって逮捕したり刑務所送りに することができます。彼らは、政府や町の皆を代表してそれらの事をする権限を持っています。要は政府と住民の代表という「名」を与えられているということです。

または、あなたがある偉い人の友人であるだけで、その人が経営する高級レストランや場所に、その人の名を使って、「コネ」で入るアクセス権をもっていることも同じような原理です。

私たちが「イエスの名」によって祈るという事は、「イエスの持つ権限」によって祈るということです。まず最初に、イエスという存在だけが「神から何でも受け取る権利」を持っていることを自覚することです。私 たちにはその権利はないんでしょうか?ハッキリ言うとないです。何故なら私たちはイエスなしでは、欲しいものどころか罰と神の怒りを受ける立場にあったか らです。イエスの恵みと彼が十字架で私たちのためにしたこと事実(福音)だけにより、私たちはイエスが私たちのために勝ち取った権利があるからこそ神に願 い祈ることが出来ます。イエスを通してのみ、私たちは神の子供として養子にされ、そのように神に見られています。究極的に言うと、私たちの権利ではなくイエスの権利です。

この視点から祈りを見ると、自分の祈りが答えられないからと言ってスネているということは祈りを勘違いしていることになり ます。私たちがイエスの名によって祈っているにも関わらず、心では、「自分はちゃんと教会に行っているし、奉仕もして教会のリーダーに仕えている、しかも ちゃんと聖書も毎日読んでいる良いクリスチャンだから、忠実に聖書の言っている基準をこなしているから神様は答えてくれるはずだ」と思って神に願いアプ ローチしているなら、私たちは「自分の名(自分の努力で成し遂げた権限)」で祈っていることになります。また「なぜこれほど頑張っているのに神は答えてく れないんだ?」という思いも、結局自分の名で祈っているんです。それは「自分が努力して~だから、神に聞かれる」という自分が土台の宗教の祈りです。イエ スの成し遂げたことである福音が、クリスチャンの祈りの土台であることを忘れています。

「わたしの名によって願うことは、 なんでもかなえてあげよう」とは、イエスの犠牲と恵みだけよって救われている自覚と彼からくる権利と権限により祈ることです。イエスの願いと目的と計画に 沿ったことを祈るなら、それは何でもかなえられるということです。「私にはそれを受け取りべき権利がある」と自負して、イエスの名を利用して自分勝手な要 望を祈ることではありません。

さっきのレストランの話に戻りますが、もしあなたがその偉い人を本当は良く知らずに、しかも友人ではないのに、彼の名を利用したらどうなりますか?または少し彼を知っていたとしても彼の許可を得ていなかったら?彼は自分が利用されたと感じて怒るはずです。要は同じように神の名を自分のために使うという事は、神を自分のために利用することと同じです。(十戒の3番目の戒めを破ること)

イ エスの名によって祈ることは、イエスとの関係が本当にあるかどうかに掛かっています。本当にイエスとの友情と関係を持ってるからこそ、イエスの名を知って いることに本当の意味を持ちます。もちろん上の例により、本人との真の関係を持っていなくとも、その名前の利用はできてしまいます。しかもイエスという力 ある名の場合、奇跡や癒し救いも起こせてしまいます。でもそのように神を利用する人々個人に対してイエスは「お前たちを知らない」と言います(マタイ 7:19ー24)。

一番重要なことはイエスとの関係中心だということです。それとも、あなたの祈りは、仕事で成功し、金銭的に豊かになり、 良い結婚パートナーを得ることで自分が幸せになり、結果的に自分の人生が良くなり、自分が「栄光」を貰うためですか?それともあなたの祈り=ただ神の前で心配して不安がり、何とかしてくださいと要求することですか?この聖書箇所が言う「願いごとがかなえられる」の最大のゴールは、「父が子によって栄光をお 受けになるためである。 」です。神様の栄光が最終ゴールです。

でも最近流行っている間違った教えは、これを逆手にとってこう言います。「でも神の子供となった私た ちが祝福されることで神にも栄光が与えられるんだ」、「私たちが祝福されれば周りも祝福されるんだと」と。ハッキリ言って順番を履き違えています。これは 本当に福音を忘れた開き直った態度だと思います。あたかも最初から自分たちにはそのような権利があったかのように、または本来はそんな権利すら持ってな かったことを忘れ、イエスの犠牲と十字架を感謝していない態度です。「イエスの名」どころか完全に「自分たちの名(自分中心)」の視点の態度と祈りです。 もちろん神様は私たちに幸せと豊かさを与えたいと思っています。そして本当の幸せは、私たちが欲しいもので満たすことではなく、イエスそのものであり、私 たちがイエスのようになることです。イエスのように自分を犠牲にしてまで相手を愛せる愛です。「神様に祝福されたら祝福しま~す」という態度とはあまりに も自分の都合で自分勝手です。神社や寺でやる御利益的な祈りと何の違いもなくなっています。

クリスチャンの祈りの土台は完全に神様中心であ ることを知ってください。すべての宗教の祈りは自分中心です。自分の正しさ、義、努力、目的が土台で宗教者は祈り、そして答えられ、神に到達し、受け入れ られ、成功できると思っています。でもキリスト者は、イエスの正しさ、義、努力、そして神の国の目的が土台で祈ることであり、そしてイエスの名(権限)で、すべて既に答えられていて、受け入られていて、神が既に私たちと共にいて、既に本当の成功と将来を約束されています。そして祈りすら既に知られています。

これらを踏まえた上で、もう一度、主の祈り(マタイ6章9-13)を読んでみてください。

ちゃんと優先順位の順番をイエスは教えてくれています。

福音的な祈りに戻ろう!


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