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善悪の知識の実

一年ぶりです!

1年間かなり忙しく、なかなか更新できずにすいませんでした!まーこれからもトピック思いついたら書きますね 笑

さて、最近よく聞かれることがあります。創世記3章のアダムとエバの話で、「善悪の知識の実」を食べてしまい、罪を犯した人類と世界が壊れて場面ですが、「善悪を知ることが何がいけないの?」という疑問です。むしろそれを知ることは良いことではないのか?と思いません?僕もそう思います。

じゃ何が悪かったのか?聖書は何を言っているのか?

その疑問に出来るだけ簡潔に向き合っていきたいと思います。

まず知らなくてはいけないのは、この時点でアダムとエバは神様の命令に「従っていない」という事実があるということです。これもかなり膨大なトピックなので今回は深くは説明しませんが、基本的に、神に従わない=神を信頼していない というのが心の根本的な問題です。別の言い方をすれば、神を神として見ていないということです。要は、罪の根源は、神が信頼できないから、自分の手中に自分の、満たし、目的、存在意義を入れようとし、自分が自分の神になろうとすることです。

その上での「善悪の知識」が乗っかってきます。究極的な自己中さの上に、「善悪の知識」です。

どうなると思います?

善悪の判断ですら自分の都合の良いように利用します。

こう考えて見ましょう。

ある人はクリスチャンの信仰を持っていても、赦せなかったり、怒りを持ち続けたり、人を裁いたままでいます。またある人は逆に、しっかりとした神の基準を生きずに、聖書も祈りも教会も通わないで中途半端で生きる人もいます。両方とも実は、自分の勝ってな判断と自分の都合の良い善悪に都合で生きています。

なぜ怒りや赦せない心を持ち続けるのでしょうか?

例えば、ある人が、あなたの悪口や事実でない嘘を言ったとしましょう。あなたは自然に相手に対して怒るでしょう。相手を「嘘つき、酷い人間」だと思うかもしれません。でもあなた自身が、嘘をついた時は、どう自分に言い聞かせていますか?小さな嘘も大きな嘘も、大概の人は、色々な理由をつけて、「その嘘が必要だった、そんなに悪い嘘ではない、結果的に良い方向になったので」と正当化しようとします。でも嘘をついてきた相手に対しては、完全な白黒を付けて、アイツは悪い、自分は悪くないと善悪をハッキリさせます。要は、自分の都合の良いように、「嘘をつくな/嘘はいけない」という知識、神の戒めを自分に合わせ利用しているに過ぎません。

じゃ逆に怠ける人や中途半端な人は?嘘をつかれても、あんまり怒らないし、気にしないけど、神様の基準に対して軽い人は?

全く同じ事を根本的にしています。

要は、神の基準は理解できるけど、「そんなに重要じゃない」と自分の都合の良いように、善悪の知識を解釈して、自分にそう言い聞かせているから、その怠ける基準で生きるんです。

これらの問題の根源はなんでしょうか?

結局、自己中心さです。

神を信頼していないが故に、前者は、自分で神の基準を利用し自分の正当性とそれをこなす自分の自信を作ります。

後者は、神の基準を自分の基準にまで落として、自分を正当化させ、それでいいんだと納得しようとします。 

牧師をやっていると常にこの両方の課題によく向き合います。そしてカウンセリングするときも同じです。律法主義的な極端な人々は常に「なぜ他のクリスチャンはしっかりと生きないんだ?」と裁き、見下し、不満を言い、周りの人々や教会に躓きます。

真面目さと忠実さに欠ける人々は、「なんであんなに鼻息荒く、完璧主義?」と言い、伝道や仕えることもあまりしません。ビジョンや目的を持って行動しようとする教会を避けます。

どうすれば良いと思いますか?

それはまた福音です。

福音の真実はこの両方を一気に解決できる力と真理があります。

福音はまず全ての人々が罪人で、神の基準から落ちていると言います。この真実は、裁きことや神の基準や正しさを利用することから解放します。人を裁きつづけ、怒りや赦せない心を他人に持ち続けている根本的な問題は、自分は罪人だと分かっていないことです。「相手は悪く、自分はあんな人間じゃない」と線を引いているからです。自分も根本的に相手と同じだと分かっていないのです。自分が本来できなかった事をイエスの成果と恵みを通して頂いている事を分かってないから、他人を裁き、怒り、赦せないです。要は、聖書の「全ての人々が罪人である」という神学を心で信じていないからです。

また福音は、「イエスが命を掛けて、神の律法と基準を全うし成就した」とあります。「イエスが命を掛けた神の基準」を、福音とイエスを信じているならどうして軽く見ることができるでしょう?本来感謝して、イエスが完成させてくれた事を、強制やプレッシャーからではなく、喜びからしたいと思はずです。要は、クリスチャンとして中途半端なら、福音に感動していない、又はイエスにした事を信じて理解してないのです。

私達にとって本当の善悪の知識、そして知恵は、イエスそのものであり、福音が善悪の基準そして知識です。

福音に戻ろう。


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