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本当に教会を愛するということ

ここ15年間、キリスト教会界ではあるトレンドがあり、良く聞くフレーズがあります。

それは「教会を愛そう!」という呼びかけです。

「神の家を愛すること」、「自分が根付く教会を愛すること」は凄く大切なことであり、真のキリスト者として必ずあるべき要素です。

しかし聖書のどんなテーマもキリスト中心性という視野を失い極端に強調する時、本来の正しい解釈を忘れてしまう危険があります。そして、この「教会を愛する」という価値観は現代では極端に強調されてしまっている傾向にあると感じます。

例えば、聖霊の存在と役割はどうでしょうか? キリストを中心に考えなければ、本来キリストに栄光を与え、キリストが教えた事を私達に思い出させる聖霊の役割(ヨハネ14-16)、キリストの霊でありと神の人格そのもである存在が、私達の人生で奇跡や超自然的だけなことを行う「単なる都合の良い、ミステリアスなパワー」としてしまう危険があります。

同じように、キリスト中心に考えなければ、「教会を愛する」という素晴らしい概念も極端になり、悪用されてしまいます。

教会はキリストの体であり、その体である私達と「かしら」であるキリストの関係は、究極的な「結婚」の概念そのものです(エペソ5:22-32)。

この概念が土台であるなら、もし私達がキリスト自身よりも、「キリストの体」の重要さを強調し始めたらどうなるでしょうか?

それは、自分の結婚パートナーに対して、「あなたという存在よりも、あなたの体の方が欲しい」と言っているようなものです。それを聞いたパートナーはどう思いますか?「自分は利用されている、結局私自身は愛されていない、ただ肉体関係が欲しいんだ」と感じるでしょう。

勘違いしないでください。私は自分の教会を愛しています。牧師としてそのキリストの体ケアし、守り、いたわることに人生を掛けています。でもその愛は、キリスト自身を愛することが土台だからです。そして教会のメンバーには、同じようにキリスト自身を愛するように呼びかけようと努力します。

「あの人のお尻はいい形ですね」、「胸が、手が、髪の毛が、足が良い感じですよね〜 (教会のあれがこれが素晴らしいですよね〜)」(笑) などと人々に説教して常に過剰に語ることで、キリストの本来の存在を愛することには完全には繋がりません。

「教会は福音そのものではない」ですし、教会が「私達の罪の為に死んだのではない」からです。教会はキリストの存在と福音を反映する体です。

でも現代の多くの教会論は、あたかも教会が聖書やキリスト人生の価値の中心であるかのように語られているように感じます。

教会を本当の意味で愛するためには、絶対にキリストの存在そのものが教会の全ての中心であるべきです。

ではどうやってまずキリスト自身を見つめ、美しい、素晴らしいと思い、愛せるようになるのでしょうか?

それはキリストの「福音」を通してキリストを理解し、触れ、生きることです。

本来、福音にあるイエスの十字架の死と復活は、キリストが「どのような方であり存在なのか?」そして「私達に愛するが故に何をしてくれたのか?」を示しています。

聖書全体の「贖いの歴史」を通して、福音は「神であるイエスの愛と恵の素晴らしさ、忍耐強さ、優しさ、同時に神聖さ、厳しさ、犠牲、贖いの計画全てを反映しています」。福音をちゃんと理解する事で、イエスがどのような方か知ることができると同時に、私達が持つ間違った神のイメージも修正してくれます。イエスの福音の理解なしには、絶対に正しい形、または神が求める形でイエスを知ることはできないからです。

私達の教会では、賛美、ワーシップ、説教、コミュニティを通して「イエスの美しさ」、イエスの存在」、「イエスが既にしてくれたこと、そしてこれから成し遂げようとしてくださること」が最大限に現れていますか?

それとも、どれだけ「教会という体」との人生が素晴らしいか、そこにあるクリスチャン人生が楽しいか、その様な人生を送るための聖書引用HOW TOとインスピレーションで、どれだけ教会にコミットしないといけないかが中心で語られ礼拝してしまっていますか?

それらが教会のメインメッセージであるなら、人々が困難や衝突を通り、祝福や成功がないとき「その体」をすぐ諦めて、他の世の中の「体」を求めて去っていくでしょう。決して成熟したキリスト者は育ちません。

それらはもちろん良いものでもあります。でも決して「中心」ではなく、キリスト抜きで崇拝され極端に強調されるべきテーマであってはいけないということです。

でも本当に福音を通してキリスト自身を愛するなら、「キリストのいう事を聞く(ヨハネ14章)」でしょう。

教会にコミットできない、都合が悪くなると離れてしまう、心から仕えない、コミュニティに繋がろうとしない、人間関係にすぐ躓いたり、裁いたり、消費者という立場で居続ける理由は、「キリストを愛していない」からです。それ以前に、まだ本当に福音を通してイエスの愛と恵を体験し理解していないからです。 イエスキリストの存在と彼の福音に感動しながら生きましょう。それが全ての「原動力であり神の力(ローマ1:16)」です。

そして「教会を愛しましょう!」。 


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