愛する義務

ローマ13:8−10 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。10愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。 この聖書箇所は、別の訳や語源でギリシャ語のニュアンスを見るとこのようになります: 「私達は誰に対しても義務はない。でもお互いに愛する義務だけはある」 こうして見ると、凄く矛盾したように見えます。 誰にも義務はない、でも愛する義務はある。 (1コリント13章の定義:全てを尽くして無条件に仕え、忍耐強く、優しく、自己中心に接しないこと)。 誰にも束縛されない。でも隣を人を愛することには束縛されている。 どう言うことでしょうか? これもまた福音の力と真理なしには、理解できず、私達にはとてもできないことです。 福音は良いアドバイスGood Adviceではなく良い知らせGood Newsであると以前書きました。 それは、私が「何をするべきかと言う訓戒と助言を聞きそれらを行うこと」で救われるのではなく、「既に起こった事の事実」という知らせを聞き(誰かが既成し遂げた現実)、それに対しどう反応するかによって救いが与えられると言うことです。 この事実と恵の土台の上に生きる事で、クリスチャンとして成長する動機は、「〜しなければならない」と言う義務の原動力ではなくなり、「〜したい」と自発的また心からする愛の動機に変わります。 でも現代の多くの教会がこれをベースに教えている訳ではありません。どちらかとと言うと、「良い知らせ」で救われ、「良いアドバイス」で成長すると知らずに教えてしまっている現状があります。そうなると礼拝での説教も恵みを語った後、努力して義務を持って行動しなければ成長できない、祝福されない、神に好かれないなどと言うメッセージに陥ります。 私自身もそのような説教や教え方を見直し、福音を再確認する過程がありました。以前関わっていた様々な教会でそのような教え方もしてしまっていたことに気づかされました。 最初は、良いアドバイスだけであったものが福音を中心にしていないことにより、愛による義務ではなく、教会に受け入れられるための義務と変わっていきました。 例えば、「常に喜びましょう」、「常に良い態度でいましょう」と言う良いアドバイスが、次第に条件や暗黙のルールになっていきます。そうなると気づいた時には、いつも喜んでスマイルしていない人を裁き、本当に悲しみや葛藤を覚えて助けを求めている人を把握できないどころか、突き放していくコミュニティになっていきました。そしてそこにいる人々も「自分の問題や心底疑問に思うことなどを言ってはいけないではないか」と感じ始めます。そうなると徐々にお互いの正直さや透明性が失われて、表面だけを作るパフォーマンスとなっていく人々やリーダー達が生まれてしまいます。これがどんどん悪循環になっていきます。最終的には訓戒や修正をできない状態になり。最初は単なる良いアドバイスとして始まったものが、人々を疎外するまたは「仲間でいられるため」の基準になってしました。愛どころか恐れの動機です。 福音の中心性はこのような極端さに陥ることを防いでくれます。なぜならイエスの死と犠牲と苦しみを見る時、「完璧な人間だったイエスですら苦しみを体験する必要があったこと」に気づきます。同時にその中で単なる表面的な喜びでなく、苦しみを通して得る喜びを学ばされます。 哀しみを通る人には、裁かずに一緒に共感して忍耐を持って接することができ、自己憐憫になり哀しみや真実を言わなければならない人には、大体に恐れることなく愛と希望を持って助言できます。それは本当の愛は恵みと真実の両方を持っているからです。 福音というイエスの十字架の死(罪に現実と世界と人々がまだ壊れて修復に向かっていると見れる視点)と復活(その修復は私達の努力にかかっているのではなく神の約束と完成するまで導いてくれる恵みと希望を持てる視点)がなければ決して「〜しなければならない」と言う義務から自由になり、同時に「〜を心からしたい」という動機は決して持てません。 律法の「義務を果たせなかった私達」の代わりに、義務を完璧に愛を持ってこなしたイエスが代わりに、「果たせなかった者」とし罰せられ、私達があたかも義務を果たしたかのように認められ、祝福を受けました。この恵みを知っているなら「ルールや基準に達せない、こなせない人々を裁かずに、心からイエスと同じ愛を持って助けようとするはずです。 同時にイエスがその死と絶望から生き返った事実により、今まで愛の義務を果たしてこなかった私達が、自分の努力によって果たせるようになるのではなく、イエスの導きと力によって引き続き恵みを通して変えられていくことが分かるはずです。 結局自分の力でこなしているのはないと自覚しているなら、絶対に他人を裁こうとはしないはずです。 もし教会がルールを持って人々を縛り、疎外するコミュニティ、または逆にケアと思いやり、健康的な訓戒がない単なる自由だけのコミュニティになっているなら、それは福音を本当に理解していない、そして恵みを心で体験していないことが原因ということでしょう。福音を通して恵みがなければ決して真にお互いを愛せないからです。 一人ひとり福音に戻り、福音に根ざした教会コミュニティを築いていきましょう!


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