雪で外に出れないので、ブログを書く時間ができた!
今年1月からOO+では、コミュニティーグループと言う「集まり」を始めた。
OO+と言う教会の名前の中には、十字架(キリスト)中心の輪 (コミュニティー)という思いも込められているので、どのような健康的なコミュニティーそして人間関係を築いていくべきかすごく考えた。ただ今までの経験 や、また他の教会が成功させているのをそのまま適用するのではなく、「聖書的」にどんなことに価値を置いて行かなければならないのかを見出そうとした。も ちろん色々な大きな教会のモデルや考え方を比べたり学んだりしたが、結局聖書に忠実にならないといけないからね。でもその中でも一番聖書的に教えて成功さ せている教会を参考に今回はこのメッセージを書いて、前回のグループでもシェアした内容だ。
イエスが一番このことについて語っているのは、ルカ6章、マタイ5章、使徒2:42~だという事を学んだ。なので今回はまずクリスチャンとしてコミュニティーを築く上で、何に価値を置かなければならないかという事を2部構成でシェアしたいと思う。
まずこの聖書の箇所からイエスが教えた、「内側の人々にどう接し、何に価値を置くべきか」を見ていきたい。
この有名な「山上でのイエスの教え」の箇所を読むと、ほとんどのクリスチャンは、個人的な「クリスチャン生活の生き方」の教えだと思って読む。俺も そうだった。でも実はここでイエスはどのようなにクリスチャンとしての理想の「輪」、「社会」、「人間関係」、「コミュニティー」を作らなければならない かを語っている。
イエスは「神の国は…こうだ」という表現を良く使った。「王国(KINGDOM)」と言う概念は、王様が変わるとその国の価値観、やり方、法律、基 準全ての「Administration 運営の仕方]が変わるものだ。会社員なら分かると思うが、自分の上司が変わると自分の部署がガラッと変わる。ある上司は飲み会などを重視するが、次の新し い上司は「定時きっかりに帰れ」と言う価値観を持っているかもしれない。ここでイエスが言わんとしていることは、「私のやり方はこうだ。神の国ではこれら のことが重要になる・・・。」と言っている。要は「山上の教え」は、俺たちにそのような価値観を持って共に生きて欲しいという教えがまず中心だ。
この箇所は旧約聖書のモーゼの十戒と対照的な箇所で、イエスが教えた山とモーゼが律法を受け取った場所が同じシナイ山であることだ。ここで考えて見 てほしい。一般的には、「モーゼの律法」は、イスラエル人が「罪を赦してもらい救われるため」のものだったと考えられているが、実はそうではない。なぜな らモーゼとイスラエル人たちは既にエジプトから「救われていた」からだ。これももう前に説明したが、キリスト教の概念は他の宗教とは違い、「ルールを守る から救われるではなく、救われているから感謝と恵みにより正しい生き方をする」が基本。それと同じでモーゼの律法は、イスラエル人がこれから「神の民」と してどのような社会とコミュニティーを作るかのガイドブックだった。その基本は、貧しい者を守り、不正をなくすことだであり、人間ではなく神を王とする社 会だった。でも歴史的には、人間は人間のリーダー(王)を選び頼ってしまい、どんどん悪い方向に向かってしまった。
長い説明になってしまったが、イエスの山上の教えはこれと対照的で、旧約聖書はプロトタイプだったことに対して、イエスの教えとコミュニティーは本 来、神様が描いていたものだ。イエスが地上にやってきて最初に教えようとしたことは、俺たちがどのように人々と接するかだ。神様との関係がイエスによって 修復されたのなら、必然的に他の人々との関係も良くなっていくのだから。だからこそここでは、裁かないこと、赦すこと、敵を愛することなど有名な教えがあ る。
このコミュニティーという視点から「イエスの教え」を読んでみると面白い。 まずイエスは神のコミュニティーの価値観を教えた。
あとで読んでみてほしいが、イエスはこう始める、「貧しい者は幸いだ・・・」。 これも有名だが教えだが、基本的にイエスは、「世の中の価値観」と「神の国の価値観」を対照的に比べている。そして一方を重んじ、一方を軽視することを教えている。 かなり長くなるので詳細的な説明をしないが、基本的に下の様になる。
世の中(社会) VS 神の国
権力(お金・豊かさ) VS 弱さ(貧しさ、足りなさ) 心地よさ(幸せ) VS 悲しみ 成功(他人より優れていること) VS 犠牲(リスク、コスト、寛大さ) 賞賛(他人から認められること) VS 除外(認められない、賞賛されない)
これを見たとき、どっちのコミュニティーに入りたいと聞かれたら、すべての人は自然に「世の中」の方だと答えるだろう(笑)。こっちの方が当たり前の様に思えるからね。
俺も最初は、クリスチャンは弱さ、悲しみ、犠牲、除外を好むマゾなのか!?と考えてしまった。 じゃ、なぜイエスはこんな「厳しい」と思えるような教えをしたのだろうか? 気を付けて欲しいのは、イエスは対照的に比べ、根本的な人間の魂のあり方を教えているところだ。
別の言い方をすると、「世の中の人々は、権力、幸せ、成功、有名になることを絶対的な価値として生き、それを基準に社会を作っているが、神の価値観 はそこにはない」という事だ。本当の自由と言うのは、これらの価値観にコントロールされない人生だとイエスは言っている。この聖書の箇所で使われる「笑う 者」というギリシャ語の語源は、ただ「笑うSMILE」と言う意味ではない。実は、「嘲け笑う」と言う意味だ。ようは「お前は負け、俺が勝った」と言う時 に使う笑い方であり、幸せから来る笑いではない。イエスはそんなことに価値は置かないという。誰が優れているか、成功しているか、人気があるか、権力と影 響力を持っているかは、私のコミュニティーの基準にならないと。
逆に、「弱さ」に気付いたとき、悲しい時を通った時、リスクや犠牲を払わないといけない時、人から理解されない時の方がよほど価値があるという。で もここで気づいて欲しいのは、クリスチャンは将来にのみ、それらが変わるとは言っていない。逆に悲しむ者は「今」幸いだという。現在進行形だ。イエスは、 「弱い時、同時に強くなれる」、「悲しい時、同時に喜びを」、「犠牲を払う時、約束そして成長と言う成功を」、「除け者にされた時、本当の仲間そして神の 存在の近さを」と言う。イエスは決して、クリスチャンは悲しまないとは言っていない、でも「悲しい」ことに真の意味を持たせることが可能だと言う。この世 の中で、唯一クリスチャンと言う生き方が、この「悲しみ」と「喜び」の両方を「同時」に生きることが可能だと俺は思う。世の中は、「悲しい」時は、ただ悲 しいだけだ。絶望に打ちのめされ、状況が良くなったらやっと希望を見出せる。でもイエスが言う生き方は違う。悲しい時に同時に成長し、喜び、そして次に進 めるのだ。
イエスはこれらに、あなた達のコミュニティーで価値を置いて欲しいと言う。別に、「権力、幸せ、成功、そして賞賛」を嫌えとは言ってはいない。だが 間違った方向に行く危険性があり、それらにコントロールされてしまうことを疑えという事だ。逆に、「弱さ、悲しさ、犠牲、除外」を好めとは言っていない。 でもそれらから逃げずに、益と祝福がそれらの中にあることを知れと言う。
これらのことを心で本当に信じ、価値を置くことで、教会やクリスチャン同士の接し方が変わる。弱い者にただ同情するのではなく、自分自身を見て共に 成長し合える、悲しい時に心底共感できる、犠牲を共に払えるようになる、正しい決断をなかなか出来ない者を、「俺はできている。お前はできない」というよ うに差別にしようとは思わずに、本当の意味で友情を築くことが可能になる。愛と真実を両方持ち、素直に率直にそして同時に愛と忍耐を持って接することがで きる。
これは使途の2章でも同じだった。そこには多くの異なった人種、文化、年齢、グループが一緒になり神を崇めていた。それを見た人々はそのコミュニ ティーに魅了された。なぜこんなにも違う人々が一緒にひとつになれるのかと・・・。そこには組織されたイベントやプログラムを中心としたものだけでなく、 「本当のコミュニティー」があったからだ。だから毎日自然に神によって人々が加わっていった。別にイベントやプログラムが悪いわけではない。私たちの教会 でもイベントはある。でも、イベントやプログラムが、コミュニティーそのものよりも魅力的になり、一番大切な要素をを忘れてはいけないという事だ。時に日 本人は、「形だけ」の関係には敏感だ。俺たちは心の奥では「本当の繋がり」を求めていると思う。
このようなコミュニティーを土台にOO+は成長したいと願う。どんなに人が増えても、イエスが理想とするこの価値は失わないようにするのが、教会の大きな課題だと感じる。その為に正しい「リーダーシップ」と「構成」が必要になってくる。
ある人が他の人よりも「成果」を出しているから認めて「リーダー」のバッチを与えるのではなく、まずその人を見てユニークな存在として認め、そして 一番その人が開花できる場所や環境を進めてあげることだ。ただ人気や影響力、スキルがあるからではなく、「もっと仕えたい」と言う思いを中心にリーダー シップを構成していく。またこのコミュニティーでは、多種多様性を受け入れられる土台があるので、一つの目的の為に様々なやり方もできる。意見が違うこと を怖がらなくても良くなり、逆にその違いから新たな一致を生み出せる。一人ひとりが、「他より優れている」にはコントロールされないからだ。
これらの事は、イエスが何を弟子たちに教えて言ったかに答えがあるが、教会が成長すると共にもっと将来シェアしていければいいなと思う。
そしてこのようなコミュニティーを築くためには、俺たち一人が神様によって変えられ、世の中の価値を基準に生きるのではなく、心底イエスの基準の上に生きられるようにしないと難しい。
みんなのいるコミュニティーももっと良いものになるように祈っている!
長かったけど、読んでくれてありがとう。
次回は、同じ聖書の箇所から、「コミュニティーの外側の人々」にどう接したら良いかを書いていきたい。
ではまた!