前回は、イエスが求める「内側の人間関係と接し方の基準」について書いたが、今回は「外側の人々」にどのような価値観と態度を取るようにイエスが教えているかを見てみたいと思う。参考となる聖書箇所は、PART1にあるので参考にしてね。
まず思い出して欲しいのは、しっかりとした「内側の価値感」の基準を持っていることが前提でなければ、外側には正しく向けられないという事だ。キリストの福音は常に、「INSIDE OUT(内側から外へ)」が基本だからだ。
ルカ5章、マタイ5章の始めではイエスは内面的な価値観教えた。その後、「この世の中の光になる」こと、そして赦すことや、人を裁いてはいけないこ となど、また反対する人々にひどいことをされた時の態度など、コミュニティーの外側の人々へのふるまいを教え始める。その内容の一つひとつはここでは見て いけないが、基本的にイエスは3つのことを行えと強調している。
‐この世の中とは違った存在になり、輝くこと。 ‐彼らの為に祈ること(彼らが癒され、態度を改め、そして真実に気づき、神様を崇めるようになること) ‐そして外側の人々に「良くしてあげる」ことだ。
ここで面白いのは、自分たちの意見やビジョンに同意する人たちだけとは言っていない。むしろ意見や価値観が合わない人々、迫害し「敵」だと思うよう な人々にそうしろと言う。「仲良くしてくれる人だけにフレンドリーになるなんてことは、誰でもやっているだろう?」とイエスは言う。ここで良く勘違いされ るのは、クリスチャンはただやられっぱなしで我慢し、何も言わず何もしない存在だと良く思われることだ。でもイエスの言う事はそれとは違う。
例えば、「片方の頬をぶたれたなら、もう片方も向けなさい」れこの教えにある有名な箇所だが、「もう片方を向けろ」とはただ「もう一度殴ってくださ い」という事ではない。その時代では、「挨拶」する時にお互いに頬にキスを数回して挨拶していた。知っている人はいると思うが、ヨーロッパではまだ同じよ うな習慣がある。俺もヨーロッパで初めて厳ついオジサンにそんな挨拶を受けた時は、超戸惑った(笑)。何が言いたいかと言うと、「もう片方の頬を向ける」 とは、非難や批判に対してフレンドリーな挨拶で返し、「和解して友達になろうぜ」という思い切った態度のことをイエスは言っている。ただ何度も打たせると いう意味ではない。
これらの聖書の箇所ではイエスが言わんとしていることは、「むしろ普通“敵”となるような人々とできるだけ和解し友達になることを努力しろ」と言 う。「自然と友達になって、同意してくれて従ってくれるような人々と仲良くなってコミュニティーを作ってもそれは特別ではないだろう?」と言う。むしろ 「自然に敵となるような人々」が集まり、一致していく場所が教会だとイエスは言っているように俺は思える。できるだけ彼らを説得し、悪に対し善で報い、そ して分かってもらうようにと。 本当のリーダーシップは、自分とは全く異なる人々や異なる意見を持った人々を、正しい目的にリードしていけることかもしれない。ダビデやイエスの元に集まった者たちや弟子たちがそれぞれ問題を抱えた問題児だったように・・・。
これは聖書全体を通じて同じだった。ルカ書の5章17節を見てみると、様々な地域の人や人種が集まったと書いてある。使途行伝の2章も同じように、 外国人や様々な文化や意見を持った人々が集まっていた。旧約聖書でもイスラエルは、外国人でも神様との関係に興味を持ってやってくる人々は受け入れるよう に命じられていた。
彼らに対して「良くする」とは、彼らの悪い行いを無視して、軽んじるという意味ではない。人に良くするとは、その人の最善を願うことだ。もしその人 に欠点や悪い態度が見えたなら、無視して何も言わないことは愛ではない。俺は子供を愛するがために、悪い態度は叱って正す。それが子供の為になるからだ。 ようはCONFRONT(指摘)しろとイエスは言う。でもそれをするときは、自分が権力を振るう為、自分の優越感や相手より成功する為、または自分が認め られてもらう為にしてはいけない言う。ただその人の成功と修復と、ベストを願ってそうしなさいとイエスは強調する。
「この世の中は、権力、成功、優越感、満足と言う自己中な目的で人を指摘し、コントロールしようとするが、お前たちはそうであってはならない」と言う。むしろ全く違う態度と価値感で「光」になれと。
実は弟子たちも最初はそれを分かっていなかった。ある時は「他のイエスの名を用いてグループがミニストリーをしていた人々を発見」した時、弟子たち は「奴らを止めさせました」と言う。でもイエスは、「何で止める?私の名に従って同じことをしいているなら仲間だ。」と言う。またある時は、サマリア人た ちが、イエスが来ることを歓迎しもてなさなかった時、弟子たちは、「火の玉を読んで奴らを焼きましょうか?」というとんでもない態度に対して、イエスは 怒った。「お前たちはどんな霊でそんなことを言っているのか分かっているのか?」と。(ルカ9章)
俺たちは自然に、「同意してくれる人だけ」や「同じグループの人たちをだけ」を優先し、他を蔑んでしまう。それはまだ世の中の価値観にこだわっているからだと思う。弟子たちのように、「誰が一番」かにとらわれているから、比べてそして他の存在を恐れ、批判してしまう。
Part1でも伝えたが、この聖書箇所はモーゼの時代背景や状況と比較できるので、「神様がイスラエルの民にどのように他の国々や外国人へ対して振 る舞うように教えたか」とも比較し学べることができる。神様が与えた律法をしっかり見ると、外側の人々にどのような対応をするかも学べるので少しだけ例を 見てみたい。
例えば、「安息日(現代では日曜日)」。
これは当時イスラエルと言う国に特別に与えた律法だった。あの有名な十戒にもある。実はイエスも安息日についてはここで触れている。一般的には、神様が7日目に休んだので、人も一週間に1日は休むべきだという事だ。でもこのルールの目的はそれ以上のものだ。
イスラエルは外国人や召使たちにもしっかり安息日をしっかり守るように教えた。それはイスラエルと言う国の存在が「他の国々」と全く違う存在になる ためだった。イザヤ56章でもあるが、その当時、イスラエルの周りの国々の文化では、成功と家族をどっちか選ばなければならなかった。政治的またはビジネ ス的に偉い人物になるためには、宦官 Eunuch(去勢された人・結婚できない人)となる必要があった。または大きな家族と子孫たちを持ち、偉大な人物として「成功」するかのどっちかしかな かったのだ。ようは「仕事」と「ファミリー」の両立が難しかったのだ。面白いことにそれは今の時代と全く同じ問題だ。キャリアを選べば家族はないがしろに され、家族と時間を取ろうとすれば、金銭と成功をある意味諦めなければならない時代だ。
でももっと面白いのが、イスラエルと言う国に対する神様のルールだ。それが「安息日」だった。これは他の国の様に「働きっぱなしではいけない」とい う事だった。「お前たちは、仕事も家族も大切に出来るようなコミュニティーを作れ」という命令だった。そしてそれを求める外国人には休息を必ず与え、召使 たちにはもしっかり休みを与えなさいと言っていた。それ以上に、「安息日」を持つことで、「収入」や「時間」にも制限が掛かる、でも神様が言わんとしてい るのは、「お前たちはお金や時間に振り回されずに、ちゃんと管理して家族や人間関係など大切なこともちゃんと守れ」という事だったのだ。これはクリスチャ ンの企業家たちや教会のリーダーたちにもチャレンジだと思う。しっかり従業員やスタッフに「休む日」を与えているかだ。 興味深いことに、 使途行伝8章で救われるエチオピア人の宦官もこれに関連している。彼はエチオピアから何千キロも離れたエルサレムにわざわざ神を崇めに来たのだ。彼は外国 人だったにも関わらず、なぜそこまでしたのだろうか?それは彼自身が自分の人生行き詰っていたからだ思う。結婚を諦めてまで得た名声と地位では心は満たさ れずに彷徨っていた。だがある日、本当の神の存在を聞き、家族も仕事もしっかり守れる人生を与えてくれる神と生き方を知り、求めてエルサレムに来たのかも しれない。そこで運命の巡り会わせで、ピリポが送られそしてクリスチャンになった。これは今でも神様は求める人々を見ていてくれる証拠だ。
ちょっともう一つ。その当時、他の国々では「結婚していて子孫を持つ」ことは、大きな社会的ステータスだった。逆に「結婚していない、またはできな い人々」は蔑まれていた。でもイスラエルの社会構成は違っていたのだ。「未亡人」や「独身」の人々が守られる社会システムがちゃんとあったのだ。
すべての「神の律法」はイスラエルと言うコミュニティーを束縛するためにあったのではなかったのだ。それ以上に、他の国と明らかに違う存在となり「神の民」として光り輝き、正しい影響を与えて行く目的があった。
これらのことを考えると、イエスがコミュニティーに対して教えていることと完全にマッチする。そして、世の中を真似て、ただ同じ価値観である成功、 地位、名声、物質的豊かさ、自己啓発を中心とした生き方やコミュニティーでは世の中に良い影響が与えられないことが良くわかるだろう。
イスラエルと言う国の基準は、常に「神様に救われた民」だった。エジプトから一方的に神の恵みで救われた民であるが故に、「神がしたことを思い出 せ」と常に言われていた。その恵みの基準の上に、国(コミュニティー)を建てることが大切だった。この概念は現代のクリスチャンでも同じだ。俺たち一人ひ とりが、イエスの十字架によって救われていること、そして恵みによって一方的にそれらが与えられることを心で信じ理解できない限り、このコミュニティーは 絶対に不可能なことだ。
逆にすぐ「自分の努力」に戻り、すぐ権力、成功、名声とことにフォーカスし始めてしまう。「自分で成功した、認められた」という思いがあるかぎり、 人と比較し優越感を強くしてしまうからだ。誰がその宗派や組織のルールを守り、表面的に良い決断をしているかによって格差をつくってしまう。それが当時の 宗教家であるパリサイ人などのコミュニティーだった。
そしてその自己中心的なステータスの基準が一番コミュニティーを壊してしまう要素だ(ヤコブ4:1)。 だからこそ、イエスは「あなたが私の教会を 建てる」ではなく、「わたしは私の教会を建てる」と断言した。それはイエスの恵みと救いによってのみ建てられる健康な教会だという事だと思う。
今回このコミュニティーの勉強を通じて学ばされたことは自分自身にとってもすごく大きい。
神様の救いとそして健全な教会と言うコミュニ ティーへの情熱と思いが聖書では本当にしっかり描かれている。教会の1リーダーとしてその責任の大きさもすごく感じた。イエスが命を懸けてまで救い、作ろ うとしている人間関係。もちろんそれは「天国」と言う形で最終的には行き着くが、教会はその神様の思いの形であり、模範になっていかなければならない。そ して同時に、ただ世の中的なうまいリーダーシップのやり方や、組織構成などのシステムをを導入し人々を管理しただけでは、健全なコミュニティーには遠く及 ばないと感じた。でもクリスチャン一人ひとりがその「神様の思いと情熱」を理解しなければ健全なコミュニティーはできあがらない。 キツイ 言い方かもしれないが、どんなことがあってもイエスを信じていながら「教会なしで生きられるという考え」を持っているのならば、それは決して神様の意志で はない。またイエスのしたこと自体、そして彼の命を無駄にしてしまっていることだ。教会に幻滅し、傷ついたり不当な扱いを受けたこともあると思うが、 PART1で学んだイエスの価値感を思い出して欲しい。そして「恵み」によって、もう一度教会と言う存在の大切さを見つめ直して欲しい。「正義」とは、そ の文字通り、イエス(羊)を自分(我)の上に置き、「神様と人々」との関係が「正しく」されるだからね。
OO+も、常にこのことをゴールにしてイエスを中心にコミュニティーそして教会を建ていければと願い、そして祈る。
ではまた!