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赦し赦されること


最近、TIM KELLER牧師のあるメッセージを聞いていて、「赦す」という事にまたじっくり考えさせられた。

俺たちクリスチャンは、「赦す」という事に関して、一番多くのメッセージを聞き、教えられ、そして実践するように常に言われているにもかかわらず、時に一番それをできていない時があると思う。それは自分自身にも言えることだ。

今回はTIM牧師のメッセージをもとに、再度「放蕩息子」のストーリー」から、本当に「赦す」という事がどういう事かを神様の視点で見ていきたい。なのでまたもう一度、ルカ書15:11-32を読んでみてほしい。

まず最初に強調したいのは、「赦す」という行動は、赦す側からの「一方的」な行動であり、そして「積極的」な事だ。

このストーリーでは、父親の二人の息子の若い方が父親の財産の一部を持って出で行ってしまう。それを売春やクラブのパーティなどで遊びまくり、使い 果してしまう。息子は惨めになり、一文無しなってしまい悔い改めて、父親のもとに「雇われ人」として受け入れてもらおうと父の家に戻っていく。

まずここで注目してほしいのは、この息子がどれほど、父親にひどいことをしたかだ。彼はただ財産を奪って行っただけではない。この当時は「尊敬や権 威」と言うものがすごく重んじられた文化だった。父親は土地や財産を所有する立場の人間として、世間やその町からも認められ、認識のあった人物だった。そ ういう地位の人物が、財産を本人が死ぬ前に「渡す」という事は、尋常な事ではなかった。当時は銀行にお金という形で財産を蓄えるのではなく、土地や家畜な どの所有物を所持することで財産としていた。ようは、息子に「渡す」ためには、土地や家畜を売り「渡せる形」で息子に上げなくてはならない。でもその土地 を貸していたかもしれないし、家畜も雇って面倒見ていたかもしれない。ようはこの行動はすごく世間に知れ渡ることであり、立場的にも実際に人々から信頼を 失う事でもあった。

父親が失ったものは、財産だけではなく、名声、人々からの尊敬など多くのものを息子のせいで失ったわけだ。

もし俺がその父親だったら、どれほど怒るか想像できない。自分の仕事や立場を失い、世間からも悪く言われる。それだけでなく貯金もごっそりなくなる のだ。そんなことを自分に対してしてきた人間は、息子であってもすぐに受け入れられないと思う。そしてこう考えるだろう、「戻ってきても、俺に対してした ツケを完全に払うまで、そしてトコトン謝らせて、その態度が変わるまでは、完全には受け入れない、信用しない」と。

「アイツが悔い改めたら、赦す。」 「赦すが、アイツとは関わりたくない。」 「赦すが信用するわけじゃない。」

クリスチャンでもこんな考え方を持っている人も多い。正当な考えのようにクリスチャンの間でも思われているが、こんなものは神様が示す「赦し」の微塵の欠片もない。

マタイでは、イエスはこう言う。「神様に捧げものをするとき、兄弟が自分に対して苦みを持っているのを思い出したなら、まずその兄弟と和解してから 捧げものをしなさい」。これもまた、積極的であり、「相手が謝るのなら和解しろ」とは言っていない。「兄弟が自分に対して罪を犯したなら、その兄弟のとこ ろに言って1対1で話しなさい」ともある。

そいつが謝ってからではなく、まず「害を受けたお前が行動しろ」だ。一方的であり、積極的だ。

このストーリーの父親の態度と行動も良く見てほしい。

父親は、家のバルコニーで息子が家に向かって歩いてくるのを見た途端、父親は「走り出 した」。その当時の服装はローブなので、女性や子供以外の特に父親という権限のある人たちは「走る」という行動はあまりとらない。ローブの裾を上げて足を 見せて走らないといけないからだ。下品であり、オッサンが必死にそんな風に走る姿は、あまり見栄えの良いことではなかったからだ(笑)。でもそんなことは 父親は気にしなかった。ただただ息子が帰ってきたことが嬉しく、抱きしめたかったのだ。

俺だったら、バルコニーで息子を見た途端、「こいつめ、ノコノコと帰って来やがって。絶対謝らせてやる」と言って、迎えるどころか怒った顔して腕を組んでいただろう。もっと突っ込むと、「こいつは何の動機で戻ってきやがった?また金目的だろう」と疑っていたと思う。

でもこの父親は、息子に謝らせるどころか、息子をキスして抱きしめた。何も言わせずに、何の「決めつけ」もせずに、すぐに信頼の証である息子としての指輪とサンダルも履かせた。

これが俺たちのクリスチャンの神が示す本当の「赦し」の態度だと俺は思う。

俺たちが作った罪という借金に対して、それでも自ら更に犠牲を払い受け入れる父親という神。「戻ってきた」という事実だけを見て、喜び、受け入れる一方的なデカい愛。

この父親は、息子が本当に「変わった」とか、「悔い改めたか」などは分からなかったはずだ。でもその愛によって息子が本当に変わるキッカケを与えたと俺は思う。

考えて見てほしい。息子は「働人」として父親に雇われようとしていた。息子としてではなく働くことで、自分の罪と父親から奪ったお金や借金を「払い戻そう」としていたのだ。 「自 分の働きで神に対しての罪を償う」、「自分の良い行いを通じて神に近づく、受け入れられ天国に行く」。前にも言ったが、これは「宗教」の概念だ。自分で自 分を変える。自分で自分の態度を良くする。自分で自分を成功に導く。自分で良い結果(実)を出す。これは宗教であり、同時に世の中のビジネスセミナーでも 単純に教えている。

でも神の愛であるイエスの「福音」はこれとは全く違う。一方的な愛、そしてあまりにもデカい恵み。「え?こんなひどい人間の俺になんで?」とガツン と心を打つような圧倒できな行動と憐れみと恵み。その愛が本当に俺たちの心と人生に入った時、俺たちは感謝せずにいられなくなる。もう同じ自分ではいられ なくなる。本当の意味で変えられる。内側から変わるエネルギーが湧き、今までのように「努力」だけで変わるのではなく、聖書では、イエスが「内側から変え てくれる」と表現している。

息子は、自分で変わろうとしていた。でも思ってもない父親のデカい赦しと愛によって、完全に変えられた。

ここでまた強調したいのは、「赦す」ときに犠牲が伴うという事だ。

本当は、息子に支払われるべき借金を、父親自ら諦め、プライドを捨て、あ る意味自分からその罪と借金を「チャラ」にしたように、俺たちも他の人「赦すとき」、彼らが自分に「払うべきもの」を肩代わりし、そしてプライドを捨てそ れらを求めることを諦めなければいけない。「復讐」を諦めなければいけない。もし俺たちが、自分を裏切った人や悪をした人が「失敗」したり「挫折」するこ とを少しでも心や頭によぎるのであれば、それは「赦していない」証拠だ。 でも、実際俺たちは「赦した」と言いながら、まだそのような夢を見たり、憎んでいる人が失敗することを話し、ある人はそれを自ら引き起こそうとする。それは決して「赦している行動」ではない。

でも俺はたまに考える。もしある人が自分の家族に、妻に、娘にヒドイことをしたら?もし殺されたり奪われたりしたら?赦せるだろうか?こんな愛の態 度を取れるだろうか?答えは、はっきりしている。絶対に無理だ。俺にはできない。でもだからこそ俺たちは神様の力が必要になる。

ティム牧師はこのような話をしていた。

彼の教会で、ある奥さんが不倫をしていたことが発覚した。 そこでカウンセリングを受けるため に、ティム牧師のところに来るわけだが、不倫をされた旦那さんは、思った以上に寛大であり、彼女を再度受け入れ、やり直す態度も持ち始めた。だがカウンセ リングを続ける中で発覚したのは、旦那さんも実は不倫をしていたという事だった。旦那さんが彼女を赦せたのは、自分も同じで、彼女を責めることができない と思ったからだったのだ。あまり良い話ではないが。実は俺たちには同じ事が、赦すときに共通する。

「福音」にあるイエスのメッセージを俺たちが本気で受け取った時、自分の罪深さが分かり、良い意味で謙遜になる。本当に福音を受け取った人間は、 「自分が他より勝っている」とは考えなくなる。皆が罪人であり、神の前では同じだからだ。だから罪を犯した人を見た時、「自分も彼らと変わらない」、「俺 も同じだ。彼らよりもマシな人間などではない」と自覚する。自分には裁く権利もないことが分かる。

でも逆に、俺たちが「他人より勝っている」と思っている時には、俺たちは他人を赦せなくなる。「俺はあいつとは違う」と思い。「アイツは嘘つきだ。 間違いを犯した人間だ」と一方的に決めつける。でも、自分も人生で嘘をついたこともあり、間違いを犯したことに関しては、言い訳する。「その時はやむ得な かった」、「正当な理由があったと」。でも実際は同じ嘘であり、罪なのにプライドがあるために真実を受け入れられない。それどころか、相手を非難し、無視 したり、最悪の場合突き放して、復讐もしようとしてしまう。

前のブログでも書いたと思うが、自分が「モラルや態度で勝っている」と言う考え方は、宗教をやっている時に俺たちの心に宿ってしまう。「良いこと」 を自分で達成していると思い、それゆえ神に祝福され認めてもらえていると勘違いしている。それが自分のプライドになり、人を見下したり、また自分より優れ ている人間を脅威に思う。そして自分たちは他とは違うと考える。宗教化してる教会は、そのような態度が教会全体に出てしまう。

でも、「福音」の恵みは、俺たち人間の根本から変えてくれる。人という性質の真実を見せてくれる。そしてその上で、神の圧倒的な愛で受け入れられて いると分かるため、赦せる力が自然に湧いてくる。裁くことをしなくなり、どんな人間でも受け入れ、与える存在として見れるようになれる。他の人も変われる 可能性をあることが信じ始めることができる。

このストーリーで父親が払った犠牲は、お金や名声だけだ。でも福音のメッセージでは、イエスが払った犠牲はとてつもなくもっと大きい。イエスは、自 分の神としての立場、財産、名声、アイデンティティーどころか、自分の命までも犠牲とした。人々に完全に無視され、除け者にされ、痛めつけられ、それどこ ろではなく、神にも十字架上で俺たちの代わりに「見捨てられた」。それはすべて俺たちが人間自身が自分で払う「ツケ」だったにも関わらず、自らすべてを背 負う決断をしたのだ。唯一、何の罪を犯さず、唯一「お父さんの家」に完璧な「息子」としていた存在だったにも関わらず、自ら「放蕩息子」になったのだ。人 類のすべての人間の「ツケ」を背負うことにより、俺たちが代わりに父親のもとに戻れるように。そしてそのどん底から這い上がった。復活した。

だから俺たちが、そのイエスを信じ、心に、そして人生に向か入れる時、どんな状況でも「本当に赦せる」人間になっていく。

俺の人間という「基本設定」では絶対にできない。でも「イエス・キリスト」という設定になるとき、それが可能になっていく。 赦しとは、「相手が~したらという」条件付きではなく、まず個人的な自分の課題だ。

このメッセージは、相手が悔い改めなくて良いという事ではない。

ここで言いたいのは、赦すそうとする側が、相手に「謝罪」を強要権利はないといことだ。 だが「赦す」責任はある。そして赦さないのなら逆に自分が苦しむ。

そして「相手」の責任は、「謝り、悔い改める」ことが責任であり、「俺を赦せ」と強要することはできない。赦されること自体恵みだからだ。

想像して見てほしい。このように赦せる人々が集まる「コミュニティー」という教会を。

条件付きそしてルールや恐れで態度を変え支配しようと する組織ではなく、どんなに失敗しても、常にその人の将来と可能性を信じ、「何の動機がある?」と疑うのではなく、何度でもチャンスと変わっていくための サポートがあるコミュニティー。このような教会の人々は、本気で世の中を変えていき、人々の心を動かせていける人々だと信じる。このような教会を建てて行 くためには、皆が「福音」によって完全に心の底から変えられなければ絶対にできない。

すべての鍵はイエスの福音にある。 OO+も常にここに立ち返りたいと思う。

英語が分かる人は、ティム牧師のメッセージをココで聞いて見てね。

http://sermons2.redeemer.com/sermons/and-kissed-him

ではまた。


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