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人を究極的に動かすもの

最近教会では、ある重要なトピックについて話し、考え、そして教えいる。

それは人間一人ひとりを動かす原動力、そして究極的に必要としているものは何かと言うことだ。今回は結構長いが、凄く重要で為になることだと思うのでしっかり読んでみてほしい。

聖書の概念から見ると、「人は究極的に何かに頼り、崇拝しながら生きている」と言っている。そしてその「究極的な何か」は、真実で唯一の創造主であ る神そのものでなくてはならないとしている。それができていないが故に、人間が持つ様々な問題や罪が生じていると断言している。だからこそ、あの有名な 「十戒」の最初の三つは、「本当の神だけを崇める」、「真実の神以外のどんなものでも「イメージ」を作り崇拝してはいけない」、「そして神の名をむやみに 利用したり、唱えてはならない」とある。唯一の神を全身全霊で礼拝する。イエス自身も、すべての旧約聖書にあるルールや預言をすべてこの一言にまとめた、 「唯一の神を、心を尽くして、魂を尽くして、知性を尽くして愛しなさい。」と。すべての人の根源はここにあり、すべて人生は「何を愛し崇めるか」によって 動いていることになる。

そして、この「唯一の神」が誰なのか、そしてどういう存在なのかをはっきり示しているのが、聖書であり、そして本当の神の「イメージ」そのものであ るイエス・キリストと言うことだ。十字架とイエスの死と復活は、神の愛の表現であり、世界が始まってから今までの壮大な神様の救いと贖いのストーリーだ。 その唯一の神に救われ、そして共に生きることがクリスチャンのメッセージと生き方。

でも現実的に、崇めなければならない唯一の神を知っていながら、究極的には「他の何か」を俺たちは現実的に崇拝してしまっている。聖書はそれを「偶 像礼拝」と言っている。そして一番危険なことは、俺たちクリスチャンたちは「偶像(IDOL)という存在を間違って認識してしまっているところにある。そ してそれがどれほど、神を信じる俺たちにとって危険な事なのかを知らなければならない。

「偶像」と言う言葉を聞くと、大概に人々は、「他の神々」と思うだろう。それが他の宗教の神であれ、お地蔵さんや、阿修羅像、ギリシャ神話のゼウ ス、日本の山の神、海の神、またはどっかのアイドルグループや音楽や映画のスターかもしれない。でも「偶像」とはそんな単純明確で分かりやすいものではな い。

聖書でいう偶像とは、俺たちの人生で「究極的な心の頼みや必要」となってしまっているもの、「生きる糧」、「生き甲斐そのもの」、または「それなし では絶対に生きていけない」と思われるものだと言っている。本来、神=すべての創造主、すべての根源、すべての源ということなるため、もし人がその「神」 を欠いているなら、他の何かがその人を満たす、究極的な根源になっていることだ。なぜなら知らずとも、また宗教を持っていなくても、何かしらを本当の神の 代わりに崇めているのだから。要は、実際的に「神」の代わりに俺たちの人生で「生きる原動力」として「機能」しているものが実は「偶像」なのだ。

ある心理学者がこのような事を言った。「自分の本当のアイドル(偶像)を見つけたいなら、自分が「一番愛するもの」を見つけようとするのではなく、自分の「悪夢」の中を探せ」と。

なぜだろう?それは簡単だ。悪夢の中に、「これがなかったら私の人生は終わり」と思っている存在があるからだ。それを失ったらその人にとって「悪夢」になるだろう。

そして大概の場合、その「失いたくないもの」はほとんどの場合、「悪いもの」ではなく「良いもの」であり、一見害の無いように見える存在だ。例えば それは、自分の「仕事」かもしれない。自分の「美貌」でもそうなりうる。成功や昇進で得た「立場」、必死に「身に付けたスキル」、「夫」、「家族」、「子 供」、どんなものでもだ。そしてこれらはすべて良いものだ。でも「良い」ものが「究極的に大切なもの」となってしまった時、それが「神の代わり」となって しまう。そして俺たち人間は、それらのものが取り上げられたり、揺るがされたり、脅威にさらされた時、様々なリアクションととんでもない行動を取る。

ある時は、自分の「立場」を守るために嘘をつく。自分の「美貌」や「スキル」が他より優れていることを守るために、他の人間をけなす。または他の人 間が持っているものを妬み、嫉妬し、憎む。または自分の「究極的なもの」が脅威にさらされてしまった時、怒り、最悪のケース、人を殺してしまう。嘘、怒 り、嫉妬、殺しなどは「十戒」の他の戒めでも触れているものでもある。

前にも言ったように、一番大切な最初の「唯一の神を崇める」という三つの戒めを破ることにより、自動的に他の戒めを破る行動に出てしまうのだ。

なぜ、人は恋人と別れた時、ある人はすぐ立ち直れて人生で先に進み、またある人はいつまでも恋人が忘れられず、鬱になり、他の人を拒否し、最悪自殺までするのだろう?それは後者が、その「恋人」を自分に究極的に必要な存在としてしまっていたからだ。

そしてその人は言うだろう、「私はその恋人を本当に愛していたからだ」と。でも実際の所、自分の究極的な「必要を満たす」ためであり、結局のところ「愛」ではなく、「束縛と自己中心」でしかない。 ま たある母親は、成長した自分の子供を快く手放し励ますことができ、ある母親は自分の子供からいつまでたっても自立できずに、コントロールしマザコンの子供 を作ってしまう。なぜだろう?それも同じ理由だ。その母親にとって、旦那よりも何よりも、子供が究極的に必要になっているからだ。

イエスは、これらの「偶像」を捨てなくてはいけないと言っている。子供や夫、家族、恋人、仕事と決別しろと言う意味ではない。でもそれらを究極的な 存在とするなという意味だ。そしてそれらにコントロールされなくなって初めて、本当の正しい意味でバランスよく、子を愛し、夫と結婚生活をすごし、家庭を 養い、そしてバランスの取れた仕事の仕方ができると言っている。

正しい心の状態であれば、親として子供には叱るべき時にしかり、励ますときに本当に励ますことができる。でももし自分の子が究極的に必要になってし まっていたらどうだろう?その親は、その子供に好かれる為に、しかるべき時に、「嫌われるのではないか?」と過剰に思い、愛を持って叱れない。またはもし 「良い母親になれば世間や夫から認めてもらえる」と言うことが、その親の究極的なニーズだったら、逆に子供に対して厳しすぎているかもしれない。「行儀良 い子供=自分の母親としての評価」になってしまっているからだ。

もし牧師自身が、この偶像の問題を持っていたらどうだろう?もし神ではなく、ミニストリーが究極的にその牧師やリーダーに自信を与え、「人に奉仕し ている自分」から受け取れる正義感と「義」をミニストリーで成功することによって養っていたら?言葉では「福音」語り、愛を唱え、聖書の言葉使い説教をし ている。でも心の中はどのような状態だろう?神を究極的に愛していることになるだろうか?

もしその人のミニストリーが揺るがされたり、成功しなかったら?または教会が批判されたれり、もしあるメンバーがその教会から離れようとしたら?ミニストリーというその人の「究極的なもの」を脅かされたら?

その人は、怒り、過剰に反応しするだろう。もしかしたらメンバーが離れないよう支配し過剰にコントロールやルールを作るかもしれない。自分に同意し ない人間を憎み、悪口を言うかもしれない。もしかしたら様々な嘘を用い、自分の立場や正当さを守ろうとするかもしれない。自分のミニストリーを立て上げて 影響力を持たせるために全身全霊を注ぐだろう。なぜならそれらがその人自身の心と霊的なニーズ(自信、存在意義、自分の価値、幸せ、喜び)を神の代わりに 究極的に与えているからだ。

自分自身もこの誘惑とチャレンジに気付かされた時期もあった。とてつもなく蔑まされる成長の過程であり、神からのレッスンだった。ミニストリーだけでなく、他の何かが気づかないうちに自分の霊的糧になってしまっているかもしれないと気づかされた。

同じようにどのような「良いもの」、たとえそれが奉仕や神に仕える行動でも偶像になってしまう。

延々と説明してきたが、理解し始めてくれただろうか?人の心と行動がどう「偶像」と結びついているかを?

では、どのように自分の本来の動機や心を探り、自分の人生で「機能的な偶像」となってしまっているものから離れ、本当の神を中心に生きていけるのか?今回はそこまで書きたい。

それをしていくためにはまず、自分の「偶像」を認識(IDENTIFY)しなくてはならない。

その鍵は、マタイの書4章~5章にある。

これは今回の1ヵ月間のトレーニングでも学んだことだが、人は4つの分野のことを基準に偶像を作り出していると言われている。この4つのうちどれかを究極的に心で求め、そして偶像を生産し、イメージを作りながら人は生きてしまっている。

その4つは、イエスが悪魔に試された中にまずヒントがある。 -COMFORT(快楽と心地よさ):自分の時間を持つこと、自由、解放。 -APPROVAL(認められること):愛されること、賞賛されること、有名になること、大切だと思われること。 -CONTROL(支配とコントロール):物事をすべて管理すること、不安要素がないこと -POWER(権力・影響力):成功すること、人より勝り勝つこと、影響力を持つこと

これら4つが人々の核となる偶像になりうる存在だ。 イエスは、最初に悪魔からこう言われた、「もしあなたが神の子なら…」 要は、「お前が神の子として認めて欲しいなら、~してみろ。」だ。これはまさしくAPPROVALの(認められようとする)誘惑だ。

次に悪魔はこういう、「石をパンに変えて見ろ。」、言い換えると、「お前断食で腹減っているんだろう?自分の能力で自分の空腹を満たしてみろよ」だ。これはCOMFORT(快楽と心地よさ)を基準に誘惑している。

その次は、「神殿の上から飛び降りて、天使が助けてくれるようにしてみろ」だった。これも言い換えると、「お前には天使がついているんだろう?すべてがしっかりコントロールされていて、身の安全があることを証明してみろよ」だ。これはもちろんCONTROLの誘惑。

最後も簡単に分かるだろう。「オレを崇め、跪けば、この世のすべてを挙げよう」だった。そうこれは、権力であり、支配する誰よりも勝るという誘惑だ。

更にこの後マタイ5章で、イエスは山上で「神の国の価値観」を最初に教える。それは何だっただろう? 弱さ、悲しみ、貧しさ、謙遜、迫害(拒絶)、そして平和を作り出す者。実はこれらの価値は、上の4つの悪魔が使った価値感と真逆となる。

これは真のコミュニティーの記事でも書いたので参考にしてほしいが、比べるとこうなる。

World世の中(社会)  VS The Kingdom of God神の国

Power権力(お金・豊かさ) VS Weakness弱さ(貧しさ、足りなさ)

Comfort心地よさ(幸せ)  VS Sadness悲しみ

Success成功(他人より優れている)VS Sacrifice犠牲(リスク、コスト、寛大さ)

Praise and approval賞賛(他人から認められること) VS Rejection 除外(認められない、賞賛されない)

まとめると、こういうことだ。クリスチャンであると言いながらも、もし俺たちの心の中で究極的に、世の中の価値観が人生で重要になっている状態なら、自分 でそこから何かしらの偶像を作り出して、それに仕えていることになる。もっと突っ込むと「教会」そのものがその間違った価値観をもとに建てられてしまうこ ともある。

でも逆に福音によって、自分の「弱さ」に気付き、イエスの中で強くされている状態。悲しみを苦しみを恐れず、その中でも喜びを持っている状態。他人 より勝る・優れるを追い求めずに、神から来る自信により、リスクを犯し、犠牲を払いながら人生を前進させている状態。そして認められるためではなく、神に 既に認められいるが故に、除外されても人々を変わりなく愛し続けようとする状態。これらに価値を置いて生きているなら、唯一の神をしっかり愛し生きている と言うことだ。

でもまず俺たちは自分の心の中にある、偶像を認識しなくてはならない。敵がどこにいるか分からなければ、奇襲を受けて対処できないように、もし把握 していないならそれは一番危険と言うことだ。でも逆に把握していれば、自分の心が世の中の価値観が傾き始めてしまう瞬間をとらえ、すぐに対処できる。

俺自身の偶像は、「認められること」だったと気づかされた。それに気づき始めた時、自分の心の行動パターンが良く分かるようになった。例えば、父親 として、自分の娘に対して過剰に怒ってしまうときもあれば、怒らない時もある。なぜあることには過剰に反応して、あることにはしないのだろうか?例えば娘 が部屋を散らかしている時は、そんなに俺は怒らない。でも娘が、父親として尊敬を表さない態度を少しでも取った時、俺はすぐに過剰に反応してしまう。なぜ だろう?それは自分の中で「認められること」が偶像になってしまっているからだ。「尊敬される父親として認めてくれないこと」に反応しているのだ。でもも し俺の自信が完全にイエスの愛によって受け入れられていることを自覚している状態なら、過剰な反応を取らなくて済む。落ち着いて、娘を悟して問題に対処で きる。

あるこういう話を聞いた。ある時ある教会に、プレイボーイ(女性との遊びがヒドイ)で有名な男がやって来た。彼は自分の女性との関係にうんざりして いて、変わりたいと思い教会にやって来た。だがもちろん最初は、教会の牧師やメンバーたちも少し警戒していた。「こいつは本当に変わるんだろうか?他の女 性に悪影響を及ぼさないだろうか?」と。だが、彼は教会に来てメッセージを聞いていくうちに、本当に女性との間違った性的関係を止めて、教会に毎週来始め た。それから聖書勉強のグループに入りクリスチャンとして成長しているように見えた。数か月経った後、ある問題が見え始めた。彼は毎週聖書勉強のグループ に参加していたのだが、グループに参加する度に、意見がドンドン強くなり、しまいにはグループを仕切ろうとし始めた。何度注意しても、グループのリーダー に過剰に意見し、常にグループをリードしようとし始めたのだ。終いには牧師に注意され、怒って教会を離れてしまった。

そこで牧師は考えた、「何が彼の問題だったのだろう?」と。そこで数年後に牧師はある日ハッと気付いた、彼の問題は、「コントロール」だったと。彼 が女性との性的関係に問題があったのは、実は女性と寝て関係を持つことで、その女性を感情的にも支配し、コントロールしている状態が彼に取っての心の 「糧」だった。そして教会と言うに「環境」に変わっが、外側の宗教的な行動を身に付けただけで、根本的な「偶像」を対処したわけではなかったのだ。だから 聖書勉強のグループでも、「コントロール」を得ようとする行動に出た。イエスという絶対的な愛と心の糧が、彼の心の中で究極的な神に変わってなかった為、 結局昔と同じ「偶像」を追いかけていたに過ぎなかった。この視点から見ると、彼は本当にクリスチャンとして変わり、イエスを信じていたのだろうか?と言う ことも問える。

実は、俺も含め多くのクリスチャンたちも同じことを繰り返ししてきているかもしれない。本当の「心の根の問題」を解決せずに。表面だけの行動・態度 は、最初のクリスチャンになる興奮で彼のように変わったかもしれない。でも一番大切な、「唯一の神を究極的に愛する」と言うことには程遠いかもしれない。 聖書でも、イエスはこのことをとことん追求した。表面だけ宗教をやってる宗教家を批判した。奇跡や奉仕で結果を出していても、「あなたは知らない」とキツ イことまで言った。放蕩息子では、明確な罪をしてきて立ち返った弟よりも、「従う」という行動と家(教会)にいることを通して、父本人ではなく、「父の 持っているもの」を得ようとした兄を危険視した。「神の持っているもの」が究極的に欲しいものだった故に、それもまさしく「偶像礼拝」だ。

皆の心の奥底にある「偶像」なんだろうか?

この教えをすると、大概多くの人は2つのどちらかのリアクションを取る。ある人は、「私、4つ全 部当てはまるんですけども」という反応と、「俺には何の問題もない」と言う人だ。実はこの両者とも、同じ問題を抱えている。それは、しっかり自分の偶像を 認識していないということだ。前者は、「何が実際に自分の心を左右しているか混乱している状態」、後者は「自分の問題を完全否定している状態」だからだ。 でも先ほど、言ったように、自分の敵と心の中の状態を知らないのは一番罠に陥りやすく、標的の的となる。

これは聖書の自分たちも皆個人的に乗り越えてきたことだ。

例えばペテロ。彼の偶像は何だっただろう?それは「認められる」ことだ。ペテロは 何度もイエスに気に入られるために発言をし、大胆な行動で周りにも認めてもらおうとした。だが結局、一番この分野でイエスを裏切り、恥ずかしみを体験す る。その時本当に、イエスの無条件の愛で受け入れられ、他に認めてもらう必要のないことに気付く。ヨハネは、「心地よさ」。イエスの常にそばにいて、一番 情熱的だが、一番イエスにべったりついていた。でも彼は一番他の弟子たちよりも、長く、苦しい人生を生きることになる。黙示録を書いた時も、拷問で全身火 傷の状態だった。一番「心地よさ」を求めていた人間が、ある意味「一番苦しみを通ったかもしれない」。トマスは疑う心から、コントロールと言った、すべて の物事を明確に把握していなければ気が済まなかったかもしれない。その他多くの聖書の人物たちも、神と歩と共に、自分の「偶像」に向き合って、乗り越えて いった。俺たちも同じだと思う。でも逃げていては、何も解決されず、そして神を唯一愛することはできないだろう。

最後に、どう解決していくかを簡単に書きたい。

まず最初に、自分の「偶像」を認識できているだけでも、半分は解決していると知って欲しい。先ほども書いたように、認識できていればパターンが分か るため、それに気づく度に、イエスに立ち返る行動と祈りをすることができる。例えば「COMFORT 心地良さ」が偶像の場合、その人は誰よりも「自由や プライバシー」を求めるため、人から強要されたりストレスされることを大いに嫌い、過剰に反応する。仕事で休暇を取っても本当の意味で休めないのは大概こ れが問題だ。でもそれを知っていれば、その瞬間、「イヤ、イエスにあって常に休息(自由)を得ているし、誰からもプレッシャーを感じる必要はない」と心を 切り替えられる。そして本当の意味で、「安息(心地良さ)」を得られる。

「認められること」が偶像ならば、「他の人がどう思うか、何を噂しているか」など過剰に考えてしまっていることが良くあるので、その「考え」がやって来た瞬間に、「イエスに認められているから、別に関係ないじゃん」と切り替えることができる。

「コントロール」なら、心配しそうになった時、または物事が自分の思っている方向に行っていない時に、イエスに「心配」を投げられる。

「権力」なら、競争心にあおられた時、負けたとき、失敗して辱めを受けた時にも、過剰に反応して自分を強く見せなくても済むようになる。

「認識」は解決の始まりだと思ってほしい。そして時間もかかることも知っておこう。ペテロやヤコブがあれほどの年数を過ごして徐々に解決したなら、俺たちも日々の生活で常に向き合わなければならない。

次に解決に関して言いたいことは、「賛美とワーシップ」だ。一番シンプルであり、一番大切なことだ。もちろん毎日聖書を読み、賛美することも大切だ が、しっかり教会という環境で、他の多くの同じ唯一の神を愛する仲間と賛美して、神様に目を向けることは絶対に欠かしてはいけない要素だ。この視点からみ ると、ちゃんと教会の環境にいないクリスチャンはどれほど、「偶像」に影響され生きてしまっているか分かるだろう。どんな理由や言い訳をしていても、教会 に繋がっていないということは、「神の優先していることを俺たちが優先していない」と言うことになる。クリスチャンとして、他の神の兄弟たちと過ごし、そ して共に礼拝することは聖書でもはっきり行うように教えていることだ。他の兄弟たちを受け入れ愛さないことは、神を愛さないことに繋がる。「神を愛し隣人 を愛する」と言うことは二つで一つでもあるからだ。

最後に、毎日、福音を再認識して、福音によって感動し、心を打たれ、変えられて生きて行くことだ。クリスチャンの人生は、自分で自分を変える自己啓 発ではない。「HOW TO」でも「原則」でもない。イエスの救いから来る力によって変えられ、そしてその同じ力によって、今まで自分ではできなかった「神に従う」という人生を 生きることだ。イエスの救いで始まった人生なのに、自己啓発に戻ってしまったら、それは逆戻りと同じだ。自分を救うことは自分ではできないのだから。福音 を毎日再発見してほしい。そうしていく中で、自然に心の中の優先順位は変わり、神を一番にできると思う。

「偶像」というトピックはかなり膨大な内容だが、今回読んでくれてありがとう。

このことを解決することで、更なる癒しと人生の問題を乗り越えることに繋がるように祈っている。質問等あれば何でも聞いてほしい。

ではまた。


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