自分がクリスチャンになったばかりの時、単純にこんな質問を持っていました。
「なんで礼拝に行くんだろう?なんで歌うんだろう?」、また「手を上げたり、目を閉じたり、称賛したり・・・」、クリスチャンとしてのそれらの文化?や行動自体が不思議でした。 そ れからクリスチャンと生きていく上でそれらの行動が当たり前になり、「そうするものだから」と言って、あまり深く考えなくなっていったのも覚えてます。で もこの礼拝する、崇拝するという行動自体は、実は私たちの存在すべてに関わってくる行動です。なので今回はもう一度、神を礼拝・崇拝することの本来の意味 と目的、そしてどのような礼拝が正しいものなのかを見つめ直したいと思います。 詩編95、詩編115:8、ヨハネ4:23 まず知らなくてはならないのは、礼拝とは何かです。
詩 編95はかなり有名な賛美や礼拝についての詩ですが、礼拝のかなりの要素と概念が詰まっています。まず礼拝は、私たちの感情、知性、情熱、意志のすべてを 使う行動です。神の前で跪く(従順)、歌う、神の声を聴く、喜ぶなどの詩編ではハッキリとそれらの概念があります。新約聖書ではもっと簡単に、イエスはこ う言いました、「知性を尽くし、思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして神である主を愛せ」と。 要は礼拝は私たちの人間として持っている すべてを神に向けて、「神だけが唯一価値ある存在だということを示すことです」。英語ではWORSHIPと言いますが、古い英語ではWORTH(価 値)+Shipです。礼拝は、神だけが自分にとって究極的な価値と存在であることを、感情・心・知性・ライフスタイルレベルで示すことです。 で もそれは、人生で自分が持っていないものを求める行動とは違います。逆にもう既に身近にある価値に気付くと言うものです。昔あるこういうことがありまし た。あるビジネスマンの友人からある腕時計をプレゼントされました。その時はそのブランドも知らずに、ただ「カッコいい時計だね。ありがとう」と言って感 謝はしたものの、たまに日常でその時計を付けていました。ある日、ある別の友達から、「お前すごい時計着けているなと言われました」。え?と思って家に帰 りネットで調べてみると、その時計の価値は僕の給料じゃとても買えないようなすごく価値ある時計だということが分かり、それからは特別な結婚式や行事以外 にはつけなくなり、大切に保管するようになりました。価値が分かったから自分の考えや行動が変わったんです。 良くあることですが、もしこ れが、数十億万円の価値ある宝石などだったらどうでしょう?時計程度で自分の行動や価値観が分かるとしたら、もっと人生の生き方や自分の自信、ましてや将 来にも影響するでしょう。でも考えて見てください。それ以上の存在である、全宇宙の神、創造主が、自分の中に共に住み、生き、対話し、その存在によって教 えられ、愛され、関係を持っているということにトコトンその価値を見出したら?本当にそれが心底分かっていたら、自分が変わらないことのほうがおかしんで す。私たちがクリスチャンとして成長できない、変わらないというのは、結局その価値、イエスと福音の素晴らしさを本当に分かってないからです。
イエスだけが自分にとってすべてを価値と絶対なる宝であるとことに日々気付くこと自体がワーシップであり、礼拝です。 次に知らなくてはならないのは、この礼拝と言うものがどのように私たちに実際に影響するかです。 あ る人はこう言うかもしれません、「私は宗教に入っていないので、何も崇拝はしていません」と。実はその考え自体が間違っています。私たち人間に与えられた 選択は、「崇拝するかしないか」のチョイスではなく、ただ「何を崇拝するか?」のチョイスしか持っていません。言い換えると、宗教を持っていてもいなくて も、人間は必ず何かを崇めているということです。何故でしょう?それはさっき言った、「価値」という概念に関わっています。要は、ある人にとって、人生で あるものが一番価値あるものなら、それはその人にとって実は神になっているからです。聖書ではこういう言葉があります、「あなたの宝のあるところにあなた の心もある」と。聖書では、自分が究極的に必要だ、大切だと思うものに自分の存在価値と思いと感情を入れてしまうとハッキリ言っています。それだけではな く、それらの神々(偶像)を作る者は、皆そのようになってしまうと詩編115:8でも言っています。要は、自分が価値あるものとするものが自分を形成して いるということです。これは、唯一の神を信じていると自分で宣言しているするクリスチャンにも同じことです。神の存在を信じることは=礼拝することにはな りません。神を信じていながら、心の中で他のことに絶対なる価値を置いた瞬間、それがあなたの本当の神の代理となってるからです。 ある人にとって、自分の仕事のキャリアが自分の価値かもしれません。 自 分の美貌やファッションセンス、自分のパートナーや子供、社会での地位、職人や音楽家としてのスキル、教会での地位、奉仕と献身している立場、神学知識、 他人より持っていると自負している一般常識または道徳心、生き方。どんなものでも「これ」があることで、「私はあの人よりもマシだ、勝っている」と思って いるのなら、それがあなたの究極的な価値であり、同時に偽物の神になっています。そして私たちは、「そのようになっていきます」。それに頼っているからで す。でももし私たちが、失敗したとき、それらは私たちを赦してはくれません。ビジネスで破たんした時、結婚が崩れたとき、子供が自分の理想通りに育たな かったとき、立場を失ったとき、自分より美人が現れた時、もっと頭が良い人に会ったとき、もっと素晴らしい奉仕や教会を建てている人間に会ったとき、もっ と素晴らしいリーダーが現れた時。それらの神々はあなたを赦すことも、助けることもできません。逆に絶望に陥り、自分を責めるでしょう。自分自身と存在意 義そのものが揺るがされます。
数年前、ある事件がありました。ある男性がずっと引きこもりで、家から出ずに、ネットだけをしていました。あ る日、堪忍袋が切れた父親が、ネットができないように家のネット環境を切ってしまいました。その晩、事件が起こりました。引きこもりの息子が、部屋から出 てきて、叫び怒りながらナイフを持って家族全員を刺していきました。生き残った家族もいましたが、とにかく悲惨な残酷な事件です。その後、警察がその息子 に「なぜ?」ということを聞きました。ある記事では、ある声が自分の中で聞こえて、「殺してしまえ」とも聞いたという答えもありましたが、本人も何故その ように行動に出てしまったのかは分からないようでした。数日後、警察がさらに調べてみると、その息子は、ヤフオクを頻繁にしていて、まったく自分に必要の ない、フライパンなどの生活商品を買っていることが分かりました。そこで警察が本人に聞いたところ、彼の答えはこうでした。「ヤフオクをするときの他人と の取引が、自分にとって唯一の外の世界とのコミュニケーション」だということでした。そこで気づいたのは、引きこもりの彼にとって、唯一の生きる意味であ り、ある意味、存在価値や意義はそこだけにしかなかったということです。そしてそれが父親によって取り去られた時、とてつもない怒りにかられました。それ が自分の究極的に大切な「神」だったからです。
実は、私たちも皆同じことを日々しています。怒り、ストレスを感じ、恐れ、絶望、様々な問題 は、実はすべて私たちの崇拝するものから来ています。自分が究極に必要・大切だと思うものが、手に入らない時、侵害された時、批判された時、それをしてい る、邪魔している人や物に対して怒ります、誰かが代わりにそれを入手されようとしているときに、脅威に思ったり心配します。手に入れるのができないと感じ たときに、他人のせいにします。もう絶対に届かない分かったときには、絶望し、鬱になります。またはそれが欲しいという強い衝動に駆られ、他人を蹴落とし てまで、手に入れようと必死になります。自分が持っていないのに、他人が手に入れているのが分かったとき、嫉妬し、その人を批判し裁きます。またはある人 が脅威に感じたとき、無視したり、無関心を装う、関係を切ることで、自分の守りに入ります。それが自分の機能的な神であり、それがないと自分を見失うから です。自分の存在価値がなくなる感覚を得るからです。
礼拝は、自分の究極的な存在そのものを決めてしまっていると同時に、私たちの感情、思考、人生の原動力と行動すべてに関わっているのが分かったでしょうか?
し かし私たちが作り出してしまう神々(偶像)は、私たちの為には何もできません。結局本当の神じゃないからです。救うことも赦すこともできません。それだけ でなく、私たちはそれらのモノが一番大切である限り、それらの奴隷となっています。それらに影響され振り回されているからです。そして私たちはその神々に 自ら努力し、自らの力でしがみつかなくてはいけないからです。私たちは、自分で作り出した偽の神によって、嘆き、苦しみ、不安になり、憎み、怒り、そして 絶望しています。またそれを手に入れていても、自分のプライドに繋がり、持っていない人を見下し、優越感に浸ります。その優越感を保つために、後輩にでき るだけ奢ろうとする人、または形上の慈善や優しさを作ることもするかもしれません。でもそれを失いかけたり、揺るがされる瞬間が来た時、自分も崩れるで しょう。そしてそれらの問題の根源を置いたのは結局「自分」なんです。
この世で、これらすべての問題から解放してくれるのは聖書が描く神様 だけです。私たちが決める神様のイメージではなく、遥か昔から、神自身が「自分はこのような神である」と示してきたのが聖書です。あなたですら、あなたの 人物像を他人が勝手に決めてしまったら、「私はそんな人物ではない」と起こるはずです。同じように、もし私たちが「神様はこうでなくてはならない」と決め てしまった瞬間に、自分の都合のよい神になってしまうからです。聖書では、神が自分で自分の存在を示しています。モーゼに言ったように、「私は私と言う存 在だ」という神です。次回にこのことはもっと踏み込んで書きますが、聖書の神は自ら自分を示すだけでなく、神自ら人間に近づいてくれた神です。罪と自分勝 手さの中に埋もれていて、どうしようもないほど迷っていた俺たちを、赦し救ってくれた神です。完全に聖なる神と同時に愛し赦す神です。ヨハネが言ったよう に、神を礼拝するものは、「真実(本当の神がどういう存在か)と霊(神の存在そのもの)」によって礼拝しなくてはならいと言ったのはそのためです。自分で 作り真実ではなく、聖書が示す通りの神の真実、そして神との関係です。その完璧なイメージを示したのがイエスであり、そして彼が命を懸けた「福音(良い知 らせ)」そのものです。その真実を理解し、本当の神に感動し、究極な価値を置き、美しいと感じ、そしてその土台によって生き始める時、本当の自由と開放を 得られます。本当の自分の存在意義が分かります。使命も生きる目的も、そして神様の計画と思いも。
イエスだけが自分の本当の神になった時、 失うことに対して、取り去れらることに対して、批判されることに対して、周りから拒否されることに対して、今までのように反応する必要がなくなります。な ぜならイエスはすべて自分が十字架でそして地上で、それらすべてを既に経験したからです。そしてそのイエスが自分の存在意義になるからです。
次回は、真実の神を崇拝すること、神が求めるように礼拝することについて触れていきたいと思います。 あなたは何を今日崇拝していますか? 福音に戻ろう。