引き続き、礼拝と崇拝について。
前回は、「礼拝(崇拝)」という行動は、すべての人類がしている行為であるということ、そして私たち人間の価値観や存在意義、生き方から持っている問題すべてに関わっていることを学びました。
では、真実の神を、どのように礼拝し賛美すべきなのかを同じ詩篇95から引き続き見ていきたいと思います。
最初 の絶対欠かせない要素は、「真理(真実)」を持って礼拝することです。どう言うことでしょう? ヨハネ4:23でイエスは、「霊と真理によっては礼拝する者を神は求めている」と言いました。「真理(Truth)」によって礼拝するとは、神自身が示す 神様像をそのまま受け入れ、その真実の神様のイメージを踏まえて礼拝するということです。そのイメージはもちろんイエスキリストそのものです。なのでイエ スを通して賛美すれば良いとなるでしょう。でも実際には、そんなに簡単なことではないです。何故ならイエスのイメージですら私たち人間は勝手に作ってしま うからです。
例えば、ある人はイエスは愛に満ちているから、いつも優しく怒らないと思っているかもしれません。でもそれだけだと偏ったイエ スのイメージになります。イエスは正しい事に対して厳しい部分や怒ることも実際にありました。旧約聖書での神も「裁く神」と同時に「恵と愛の神」です。 「完全に聖なる存在(超越した存在であり、近づくことさえできない)」と同時に「自ら近づき関係を持とうとしている神」です。イエスは、「真実と恵」の両 方に満たされていたと聖書にはあります(ヨハネ1:14-17)。神は「正義を行う神」であると同時に「罪を背負い赦す慈愛の神」です。矛盾しているよう でも、両方把握して正しい神のイメージです。多くのクリスチャンは旧約の神は怒りっぽく怖くて、新訳では愛の神だという勘違いを良くします。でも神は最初 から最後まで変わりません。同じ神です。
何故この詩篇を書いた人は、どのようにして神の「したこと」や「存在」とその詳細を分 かっていたのでしょうか?それは彼らが持っていた旧約聖書の書物と先祖やコミュニティを通してです。神はアブラハム、イサク、ヤコブの神と言った様に、神 は自分の存在を特定のやり方と歴史で示したからです。アブラハムは神が契約し約束を守る神だという象徴、イサクは約束の息子(sonship)や世代を超 えて繋がることなどを重視しています。後にイエスという息子に繋がります。ヤコブは、彼の人生を通して神だけが唯一求めるべき存在、そしてイスラエルとい う民の象徴を私たち人間のクリスチャンという存在が神のものであるという意味があります。これ以外にも沢山どの様な神かということは彼らの神とのやり取り で分かります。
要は聖書が示す正しい神様像を無視して神様を自分勝手に解釈した時点で、間違った神を礼拝しかねないということで す。だから真実を持って礼拝するものということです。パリサイ派の様に聖書を読んでいながらも、聖書の意味と解釈を「イエスと福音」に繋げなかった為、神 様がどの様な方かを完全に誤解していました。 イエス自身も、聖書はすべて私のことについて書かれていると言いました。結局、神様とそして正しいイエスのイメージを理解するには「福音」が必要なんで す。それはイエスの十字架の死と復活です。
死は、「俺たちの罪深さ」、「神の聖なるさとその基準に達せない現実」、その結果人間に訪れる「罰と裁き」、それを解決する「愛によるイエスの犠牲・苦しみ」という真理の部分などを象徴しています。
復活は、 その「死を超える神の力」、「愛、恵、慈愛や、希望」、「将来」、「修復」、「完成」、「新しい天と地」などの象徴です。この両方理解して初めて神がどれ ほど罪を受け入れない聖なる存在か、そして同時に愛深く関係を持ちたいと思う神かが分かります。先ほども言ったようにこのイメージは旧約から同じであり、 イエスによって完全に完成され明らかになりました。
この福音の意味を心に入れて初めて私たちが心からイエスのしたことにデカさを知り感動出 るわけです。そこから本当の礼拝が始まります。 イエスの死は、自分の罪がどれ程重いのかを思い知らせてくれます。先代のクリスチャンたちが神に出会ったとき最初は皆ビビり、怖くなって自分が小さく思え たように、神に近づけば近づくほど自分の罪深さの認識はドンドン重くなります。神の真実を知れば知るほど、自分が小さくなります。神と自分の立場の間にど うしようもないほどの歪とギャップがあることを知るはずです。そのままだと、俺たち人間はその重さ(神の栄光=存在価値の重さ)に押しつぶされるでしょ う。でもイエスのしてくれたことを知るとき、イエスしかそのギャップを埋められないことを完全に悟ります。
こ のようにクリスチャンの人生は、二つのダイナミックさがあります。「神の神聖さを知る」と同時に、「自分の罪深さを認識する」という、プラス・マイナスの 要素です。クリスチャンとして成長し、そのギャップの大きさに気づけば気付くほど、イエスの十字架に頼るしかないんです。パウロが自分が最悪の罪人だと認 識したように、同時に神様の素晴らしさを知りイエスに頼ったようにです。だから彼は「福音を恥とは思わない」、「それは神の力だからだ」と断言できまし た。それが自分の中でイエスの存在を大きくしていくということです。
考えて見てください。神様だけが自分の人生で価値あるものと心底理解し て、同時に罪人として自覚することで謙遜さを持ち、同時に聖なる完全な神が自分を受け入れてくれているという、神の子供という真実の上に生きることができ たら・・・。それこそ怖いものなしです。どんなに批判されても自分が揺るぐことはないでしょう。なぜなら既にトコトン自分は罪人の中の罪人と分かっている からです。他の人の方が自分より勝っていると自覚しているので、相手を裁くこともしません。どんな状況でも他人を赦せるでしょう。同時に神に受け入れられ ていると知っているので、大胆です。ある意味周りの意見や批判をものともしないので、使命や神に従うことに関しては制限はなくなります。勇気や度胸と同時 にセンシティブさも、厳しさと同時に優しさも、愛と真実も、決断力と同時に周りとの協調性も持てる品性も持てるはずです。もちろんこれらは理想です。でも それが私たちのゴールです。そしてそれはイエスが自分の十字架が中で大きくなっていく以外には絶対達成できないのです。
私たちクリスチャンの真の礼拝とは、この十字架とイエスの存在に目を常に向け直していく事だと確信しています。そして教会の礼拝で、常にイエスと福音がすべてにおいて強調されなければハッキリ言って神の求める礼拝にはならないと思います。
いずれこのブログにも書きますが、このチャートで自分の中の十字架の大きさが変わらない時、 その結果できてしまう「上と下のギャプ」を埋めるために、私たちは自分の力に頼ります。それがある意味宗教です。自分の罪から目を背けたり軽くする(1ヨ ハネ1:8)と同時に、神の神聖さに自分の努力で近づけると思い込んでしまいます。それは自己啓発とも言えます。「奉仕しているから、教会に毎週行ってい るから、誰よりもモラルを持っているから、誰よりもビジョンを持っているから、またはそのミッションの一部になっているから、神は受け入れてくれる」と いったように、そう心の奥底で思いながら生き始めます。そうすると自分の中の十字架は大きくなるどころか小さくなるでしょう。
皆さんは「真理」を持って神様を礼拝していますか?それとも自分の礼拝は、自分の感情と努力で埋め合わせしていますか? 福音に戻ろう。 次回も引き続き、更に礼拝の大切な要素を見ていきます。
(図式は serge, Gospel centered Lifeより抜粋)