top of page

礼拝(崇拝)するということ part3


引き続き礼拝についてです。今回で最後っす。

次に重要な礼拝の要素は、神様の家族という共同体、教会という「コミュニティ」です。 例えば、詩篇では、個人だけに神を礼拝しろとは言っていません。常に「我々、私たちは」という共同体として神様を崇める事を強調しています。もちろん一人ひとりで も個人的には礼拝できますし、神様を個人的にある程度までは知ることはできます。でも本当の真実の神を知るには、コミュニティは絶対に必要不可欠だという事です。

私 たちの現代の社会は、個人主義といことが良く強調されます。個人の幸せ、個人の夢、人生、目的、「自分」という存在をやたらに強調する社会になってしまっ ています。もちろんアジアの国々の中では、家族や昔の日本みたいに同調性を重んじる社会はまだありますが、アメリカやヨーロッパなどの国ではかなり Individualism(個人主義)がとても強くなっています。 でも旧約聖書の時代などは違う時代でした。その時代ではコミュニティ である一人が犯した罪は家族の全員責任でした。現代のように、自分の過ちは自分の責任という概念だけではなく、周りのコミュニティの責任でもありました。 この概念があったからこそ、アダムが罪を犯した時点で、ア ダムの家系(人類全体)の全体責任になったのです。でも同時にイエスという正しいアダムの家族に入る時、逆が適用されます。イエスが唯一正しいのでイエス に属する家族 みんなが赦されるわけです。 このような概念により、神様は教会という存在を建て、お互いに赦しあい、愛し合い、責任を取り合う共同体を作りました。イエスラエルの国がその原型であ り、そのための律法でもありルールもありました。コミュニティは本当の神を礼拝する上で、絶対に必要なものでした。 更に、神の存在そのも のが既に「三位一体」という形でコミュニティであるという理由もあります。天なる父と神の子イエスという家族であるように、私たちが他の兄弟姉妹であるク リスチャンをのけ者にしたり、クリスチャンは教会なしでも生きていけるという考えを持った時点で、結局神様の存在そのものを否定していることになります。 神を愛すること、隣人を愛することは同じように重要だというのは、この理由です。でも現実的には、教会内の人間関係は酷いものです。教会同士の間でもそう かもしれません。本来このことを福音によって心底分かっているはずの私たちクリスチャンが、嫌いな人を無視し、合わない人を拒否し、世の中の人々でも良識 によってしない酷いことをしています。 それは福音ではなく、宗教をやっているからです。前にも書いたように、宗教はそのような外と中を 「良い・悪い」、「できる・できない」、「知っている・知っていない」の基準で分けてしまうからです。福音は、すべての人が罪を犯し「悪く」、神の義を達 成「できず」に、そして神を「知ろうともしなかった」ということを自覚することから始まります。良い方はイエスだけだからです。その基準と神の恵みから、 自分と違う人を受け入れ、赦し愛せるようになります。礼拝も同じです。一人でクリスチャン人生を生きて、神を愛せる と思っているならとんでもない勘違です。

次に必要なことは、「霊と真理によって・・・」とあるように、「聖霊」によって礼拝 するということです。「神の霊」という表現は、旧約聖書では、神様の存在(臨在)そのものを意味しています。神がいるその場所であり、存在の中でした。こ の概念はすごく興味深いですが、長くなるのでまたいつか説明したいと思います。基本的には詩編95にあるように、「神の前に来て跪く」ということです。旧 約では、「神の契約の箱(神の臨在そのもの)」や「神殿(神と人が出会える場所」の概念でも説明されています。簡単に言うと、イエスがそれを可能にしてく れました。神のイメージであり、存在そのものであるイエス。でも本来だったら罪を洗わずには神殿の奥には入れなかったため、必要だった羊などの捧げ者とい う存在になったイエス。その儀式を行っていた司祭の役割を果たしたイエス。ある特定の神殿でそれをしなくていいように、「前の神殿を壊し、新しい神殿(私 たち)を選び、その体の頭なったイエス。そして聖霊という形で神様の存在を私たちの中で住まわせてくれたイエス。結局すべて旧約の儀式やシステムはイエス を指しているということです。なので、神の霊によって礼拝するとは、イエスのしてくれたことを自覚し、思い起こし、悔い改め(自分の罪深さを自覚する) し、神様の恵みだけに頼り、感謝して礼拝することです。なぜなら聖霊の役割は、イエスに栄光を与えることだからです(ヨハネ16:14)。 もっ とはっきり言うと、もし教会の礼拝で、イエスが中心に崇められずに、イエスのしたことが強調されずに、自分たちのすべきことだけや祝福されることだけ(自 己啓発)が代わりに強調されているなら、ハッキリ言って本来の聖書的な「礼拝」にはならないということです。そこには聖霊の働きではなく、自分たちで作り 出した「興奮」と「インスピレーション」しか残りません。最悪のケースそれを神から来ている喜びと錯覚して、人生の原動力にしてしまうでしょう。

最後に重要な要素は、「安息」の 中で礼拝し崇拝するということです。詩編95の最後の節には、「安息にはいれない」というように神様が言っています。何故賛美や礼拝のことを今まで話して いたのに、いきなり「安息」ということが出てくるのだろう?と思いますよね?それは前のPart1、2の内容に繋がっています。 もし私た ちが、「真の神」の存在とイメージを把握せずに、「代わりの神(偽物)」を崇めている限りは、それを常に欲して、求めているので「休息」は自分の魂の中に はありません。なぜならその偽の神が自分を常に形成しているからです。「認められなくちゃ」、「愛されなくちゃ」、「成功しなくては」、「教会に仕えなく ては」、「使命を生きなくては」ですら、自分を形成しているので、ある意味寝ていても、休暇を取っていても魂の安らぎはない状態です。でもイエスを土台に する新の礼拝には、本当の安息があります。それらを必死に求める必要がなくなるからです。福音を通して、既に愛されています。認められています。成功?も 世の中の基準の成功はもうどうでもよくなります。教会に仕えるのも、牧師や周りをガッカリさせないためにするのではなく、ただ「そうしたいからする」の で、逆にシーズン的に他のことを優先させなくてはいけなく、「ノー」と罪悪感なしに自信を持って断れます。または仕える時は心から仕えることもできます。 旧約で、ヨシュアたちは約束の地に身体的には、安息を得ました。でも魂と心の安息は神以外にない状態でした。でも私たちには、イエスの福音を通して、「完 全な安息」を与えられています。もしこの安息を得ていないのなら、「礼拝すること」そのものも努力になるでしょう。「礼拝」しなくては神に受け入れられな いと勘違いしているからです。

教会に行って仕えなくては、良いクリスチャンになれないと思い込んでいるからです。別に教会に行かなくて良いとは言っていま せん。仕えなくて良いとは言っていません。でも、それらを「自分を安心させるため、自分の義を作るために使うな」と言っているのです。外側の態度と行いだ けではなく、「心を変えろ」ということです。それらが自分の義なら、その時点でイエスはあなたの「救世主」ではなくなっているということです。イエスの十 字架が自分にとって十分でないといていることと同じです。要はイエスは自分に必要ないと言いながら宗教的な行動をしているにすぎません。イエスにあって 「休む」ことは、自然に本当の礼拝に繋がります。教会に私たちが行かなくなるのも、コミュニティーの中の人間関係や問題から逃げるのも、イエス以外のもの が満たしてくれると自分の心の奥では信じているからです。他の偽の神を崇めそれに頼っているからです。

今回3回に渡って、聖書的な礼拝の概念を見てきましたが、福音の必要不可欠さを分かってくれたことを願います。真理、聖霊、コミュニティ、そして安息の中で礼拝できることを祈っています。 福音に戻ろう。 ではまた。


You Might Also Like:
bottom of page