本当の意味でクリスチャンになると、「救われる」、そして「使命を受ける」と言うことが2つ同時に起こります。 アブラハムは、神様と出会うと同時に自分の故郷を離れて約束する地に行けと神様に言われました。「その地はどこですか?」と聞くと、「それは後で分かるよ。」という感じで。笑 ヤコブは故郷を離れると同時に、出た先で神様に出会いビジョンを見ました。 モーゼも引き寄せられて神様との出会いがあったと思ったら、エジプトに戻り自分の民を救い出せという使命を与えられました。 ダビデもイザヤも、そしてイエスの弟子たちも多くの聖書の人達は、神様と関係ができると同時に「心地良い場所 comfort zone」を離れミッションを与えられました。 も し私たちがイエスに出会い神様との関係を持っていると言いながら、神様のミッションに加わっていないなら本当の救いを分かっていないということです。この 2つは切っても切り離せないからです。イエスの十字架と復活を通して、世界を救い修復し再生するという目的そのものが神様がずっと昔から実行し続けて来た ミッションだからです。そして私たちはその歴史の真っ只中にいます。イエスが最初に地上に来た時から、次の再来の間に私たちは生きています。アブラハムの ように「故郷」を離れていてもまだ目的地に向かっている状態です。 神様の使命がなければ、自分の為に教会に行くでしょう。自分の為だけに 聖書を読んでしまうでしょう。そしていずれ、教会やメッセージに満たされなくなったら、文句を言うか、または世に中で満たしてくれるものを探していずれク リスチャンのコミュニティを捨てるでしょう。神と人々に仕えると使命がないからです。でも使命がある人は、常に健全なクリスチャンのコミュニティを見つけ ようとします。 神様の使命がある人は、問題を見たときにもっと良くしたい解決したいと思います。ない人はそこから逃げます。使命がある人は常に「神様の約束という目的達成という希望」と「心地良さを離れる苦しみと痛み」の両方のテンションに生きています。 そ のテンションに生きる力はイエスからしかもらえません。福音のように、「圧倒的に罪深い俺たちであったのに、圧倒的な愛と恵みで救われている」というテン ション。「この世の中の価値観にあっては貧しいけど、神にあって富んでいる」、「弱いけど、強い」、「ある人たちにはボロクソ文句言われているけど、ある 人々は俺たちの善い行いを見て神を崇めるようになっている」、「この世に属さない外国人だけど、この世に中に住んでいる住人」。この狭間のテンションに生 きるのがクリスチャンです。そしてそれはイエスの福音でしか見出せません。 もし私たちが、教会という世界だけにどっぷりハマりすぎて教会 が提供するプログラムだけの人生になり、「俺たちが生きている人生(成功、結婚、ビジョン)は世の中よりマシだ」という見下した態度から伝道して、その世 界観だけを強調しながら人々と関わっているのだったら、私たちはそのテンションに中にいません。逆に教会という存在はもうダメだと言い、クリスチャン達は 偽善者とか言いながらクリスチャンのコミュニティから完全に離れているのなら、それも正しいテンションを生きていることにはなりません。結局両方共、自分 の幸せと心地良さが中心であり、単なるプライドです。結局自分で自分の満足を作っている宗教です。 この究極的なテンションがある使命に生きて欲しいです。教会という聖書的なコミュニティにつながると同時に、社会で生きて働き様々な問題にぶち当たりながらも影響力を持つ。闇にありながら輝く光のように、食べ物に混ぜられながらも味をしっかり持つ塩のように。 本当の意味でクリスチャンの人生を生きて欲しいです。 救われて使命を生きていますか? ではまた。