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聖書的な聖書の読み方  (福音中心とした聖書の捉え方)


以前、OO+教会を開拓するに当たって自分の中で多くのことを変えさせられ、考えさせられたという事をことをシェアさせて頂いた。

その中でも自分にとって、ある意味一番重要な理解の変化の一つを今日は分かち合いたいと思う。

それは「聖書の読み方と理解の仕方」だ。

聖書は一番歴史的に人々に読まれた書物として、また同時に多くの影響を与えてきた。 歴史や文化を通して、人に様々な形で読まれ、理解され、また良い方向にも悪い方向にも解釈され、使われていた。 聖書は神を無視して、ただの歴史の本として読まれてしまうこともできる。また宗教的にも人間が作り出す宗教の信仰の対象となり、ビジネスにおいても知恵の根源として箴言や伝道者の書は用いられてきた。

でもクリスチャンとして知らなくてはならないのは、人間が作り出す神が基準の理解ではなく、全知全能の神自身がが何の目的でどういう意図でそれを書 き、そして何を伝えようとしているのかを理解しなくてはならないということだ。特に自分自身のメッセンジャーとしての役割の中で、この理解はとてつもなく 重要だと感じた。

聖書は究極的に分けると2つの読み方ができる、それは「自分の為」に読むか、または「本当の神を発見し知る」ために読むかだ。これは「福音を中心と したミニストリー」のトレーニングの中ですごく考えさせられたことだ。この聖書的な概念や詳細を明確に提供してくれたCTCのMovement、ティム・ ケラー先生、そして福音を中心とする教会や団体のリーダーや仲間たちに感謝したい。

このことを学ぶ中で、牧師やリーダーたちが聖書の解釈を間違ってしまうことにより、教会やミニストリーそのものがズレて行ってしまうと本当に思っ た。そして多くのクリスチャンもこの区別を分からずにただ聖書を読んで、何をどう捉えたら良いかわからない現実があることもにも気づいた。はっきり言って しまうと、聖書は間違えると「危険」なものにもなるし、また逆に「真の癒しと救い」をもたらすものにもなる。

ではこの二つの読み方は何がどう違うのだろう? まずはただ「自分の為」に読んでしまうことの危険性を見てみよう。

聖書は、旧約聖書も新約聖書もその中にある歴史や登場人物の生涯も、一つのテーマを指して常に描かれている。それはもちろん「イエス・キリストと彼 の福音」だ。イエス自身も明確にそのことは福音書で言っている、「すべての律法や預言者の言ったことは私についてであり、それらを壊すのではなく成就する ために来た」(マタイ5:17-21)、また「すべての聖書は私についての証であり、すべて私について書かれている」(ヨハネ4:39、ルカ 24:13~34)とも宗教家たちや弟子たちにも断言した。まず聖書は「イエスが救世主であり、俺たちの罪を十字架で背負いまた死から復活したこと」を示 し、そしてその事実を土台とした信仰がどのようなものかを描き、そして同時に俺たちに信仰を与え、本当の神の性質を知りとの関係を深めていくためにあると いうことだ。

「自分の為」に読んでしまうとは、まずその福音を自分に適用せずに読んでしまうことであり、イエスを見つけることを優先して読むのではなく、ただ自 分が「何をしなければならないか?」を基準に読んでしまうことだ。聖書を読むときにイエスから目をそらすと、自分の利益・祝福・成功をもらうため、自分の 努力で神に認めてもらうため、罪悪感を消すため、「良いクリスチャンになるため」、また単なる自己啓発というレベルに聖書を下げてしまう。

前にも話したが、多くの日本の文豪たちが聖書を読んだことにより自殺しそうになったということがあるが、それは彼らが聖書を間違った視点、そして「自分中心」に読んでしまったことに原因があると説明した。 聖 書の中で神様が求める道徳的基準はどの宗教よりもとてつもなく高い。旧約聖書の律法だけでもすごく高いが、新約でイエスが言う基準はもっと高い。敵を愛 し、常に隣人を愛し、自分がしてもらいたいように相手にも接すること・・・、結局「完璧になれ」と断言している(笑)。「無理だ~!」と普通の人間なら思 うだろう。でもそれが正しい反応だ。 でも日本人は超真面目だ。その基準を頑張ってこなそうとする。その時、できない自分に気づいたとき失望し自分 をさげすみ、罪悪感に襲われる。例えできたとしても、そいつはパリサイ人のように傲慢になり自分で良いクリスチャンになったと思い込みひどい人間になるだ ろう。だからそのような「自分の為(自分で自分を変えようする自分中心の聖書の読み方)」はどちらにしても危険だとこのブログでも説明した。 聖書はイエスの福音の真実と愛と恵みを理解せずに読むようにはできていないのだ。聖書は「人間の愚かさ」と、「神の基準にどう足掻いても達することができな い人間の罪深さを示し」、その罪に対する神の神聖さと怒りを明確にすると同時に、それを解決する圧倒的な神の愛と恵みの両方を しっかり示している。だからイエスが「完璧になれ」という時、すべての神の基準をこなしたイエスを受け入れることを通して「完璧」になるということにな る。敵を愛することも、異性を正しく見ることも、霊的成長そのものもすべてだ。聖書はその二つの神の怒りと愛が矛盾しているように見えて、でも「福音」に よって両方の真実を守っている。でもそれを忘れて聖書を読んでいる限りは、すべて自分の為になり、神の恵みと働きではなく「自分の努力で神に近づく」とい う、まさしく宗教をやりは始めてしまう。要は極端に傾いてしまう。

そしてもし教会がただ「自分でがんばれ~」を土台に聖書を解釈し、ミニストリーを建て始めると、それこそもっとたちの悪い宗教になる。こういう意味 ですべてがズレるということだ。イエスの時代もそうだったが、その宗教世界では、自分の努力が中心なので、必然的に「できる人」と「できない人」に区別さ れる、「成功できる人」・「できない人」、「祝福されている人」・「祝福がない人」、「断食して祈り人」・「あまり祈らない人」、「多く教会で奉仕する 人」・「できない人」。これらの要素や度合いが霊的な成熟さだと思い始めてしまう。そしてそれを中心にすべてのミニストリーの成果と基準が判断されるよう なシステムが出来上がる。そうなると究極的には、「内部の人」と「外部の人」となる。言い換えれば、教会や組織の基準(ルール)に当てはまる人、当てはま らない人とを区別する。こうなるとイエスの福音が「良い知らせ」ではなく、特定の教会やある環境にいることが「良い知らせ」であり「良いクリスチャン」と なってしまう。

「福音」という基準をを忘れてしまうとすべての基準がズレしまうのだ。クリスチャンとそうでない人たちの唯一の違いは、ただイエスの救いにある恵み と愛じゃなかったのか?皆神から離れた同じ罪人だったじゃないのか?俺たちが救われたのは何か俺たちが良いことをしたから?または他より少し賢かったから だろうか?なぜ完全な恵みと愛によって救われたのに、自分の努力で良い人間になり始めることができると思ってしまうんだ?これらはガラテア人への手紙でも 問題となっていたことだ。パウロは「違った福音」のことも注意している。

そしてこの「ズレ」は聖書の捉え方と読み方一つにも表れてしまう。ただ読めば良いというものではない。ただ毎日「神様は何をしろ(アドバイス)」と言っているかを理解するための聖書の読書ではなく、まず「神が何をすでにしてくれたか(良い知らせ)」 を理解することから始まり、正しい理解が生まれ、そして毎日が始まる。神からただアドバイスを受け取ることが聖書の目的ではない。それだけならどんな宗教 もアドバイスをくれし、先生と呼ばれる存在も多くいる。でもイエスは単なる良い教師(ラビ)ではない。聖書はイエスにある救いを示すものであり、俺たちに 「福音(良い知らせ)」を与えるものだ。要は聖書をどれだけ読んで理解しているかが霊的レベルや良いクリスチャンではなく、どれだけ福音と神の恵みに感動 し、心打たれ、そしてそれが自分の変化と成長に繋がっているかが大切だ。 そして教会の存在も変わってくる。福音を見つめている人々は自分 の弱さを理解すると同時に、神の愛に頼り生きているので、赦しあう、受け入れ合う、違いを認め合い、お互いの違いがあってもイエスにあって一致を築こうと する共同体となる。ある道徳的・宗教的・社会的基準に達するかどうかではなく、お互いの間違いや失敗からも福音の素晴らしさを再確認し合い、立ち上がり前 進し合える場所となる。福音という、ある意味究極のバランスがあると、教会はただ「病院」いう傷を舐めあう場所にはならず、また逆の厳しさだけの弟子訓練 と成長を基準とした教会だけにもならない。両方の極端さを避けることができる。イエスが「恵みと真実」を両方持ち合わせたように、福音の中で教会も「恵み と真実」の両方を兼ね備えたミニストリーを形成できる。

では神を知る為そして関係を深める為の読み方とはどういうことだろう? それは既に上記でも答えを出していると思うが、イエスと福音を発見する読み方だ。 すべての聖書はそれが中心となっている。

具体的にどういうことかもう少し説明したいと思う。 これは、「福音中心」をモットーとするOO+のメッセージの仕方にもすごく重要視していることなので参考にしてほしい。

例えば、良くあるダビデからの説教。 正直、自分自身も今までは、ダビデのストーリーを使って「俺たちが何をすべきかしか」という説教しかしていなかった自分に気づいた。 「ダ ビデは勇敢で、皆がビビッているときに一人巨人に立ち向かった。そしてサウル王の剣と鎧ではなく、自分のスキルという投石器で倒した。なので、私たちも自 分の良さとスキルを生かして、人の目を気にせず勇気を持って成功に立ち向かいましょう~」というのが、現代の一般的な人気あるメッセージになるだろう。そ れらを言ったあとに、「ハイ。イエスを信じればその勇気が持てますよ。彼を信じますか?」となるかも知れない。 でも考えてみれば、これで は究極的には「自分の努力でダビデのようになれ、頑張れ」と言っているに過ぎない。イエスの事を話していても、イエスを救世主としてではなく、単なる自分 の成功のための「後ろ盾となるアドバイザー」程度としか伝えていないということに気づかされた。イエスがなぜどのようにして俺たちの救い主なのか説明すら できていない。 自分自身もある意味、福音を明確に説明するメッセージをせずに罪悪感を感じた時もある。「自分は本当の福音を語って来たのだろうか?」と。

では福音を中心とした捉え方はどのような感じだろう? その為にはイエスと福音がこのストーリーや時代の背景の中でどう示されているのかを見なくてはいけない。 そ の当時イスラエルはぺリシテ人に圧倒され攻撃を受けて、皆怯えていた。この戦争で負ければ、完全に彼らの奴隷になってしまう状況だ。でもだれもぺシリテ軍 のボスである巨人ゴリアテに立ち向かおうとする勇気ある者はいなかった。でも羊飼いであり末っ子のダビデが神の好意によって巨人と戦う状況が作り出され、 結果的にダビデが巨人を倒したことによりイスラエル全員が救われ解放された。

これを福音に照らし合わせるとこうなる。 ダビデはこれからやってくる救世主イエスの象徴でありプロトタイプ。ダビデが勇気を持って 踏み出し巨人と戦って勝利したように、イエスも神でありながら、地上に一歩踏み出し、十字架で罪と死に打ち勝った。同じようにダビデの勇気ある行動によっ てイスラエルが解放されたように、俺たちもイエスを通し、罪という奴隷から解放される。それだけではなく、ダビデは単なる弱い羊飼いであり末っ子(その当 時では一番権利がないこと)だったように、イエスも武力で勝利するのではなく弱さそして人類の「長男(神の子)」という立場や神である権利を俺たちの為に 捨て「仕える」ことにより、十字架という人間にとっての愚かさと弱さを通し勝利した。だから俺たちは、ビビっていて何もできなかったイスラエル人と同じ だったが、イエスを信じ頼ることにより、イエスを通して俺たちもダビデのように神に従い、勇気を持てるようになっていける。だから俺たちにはイエスが絶対 に必要であり福音を信じることにより、自分の力ではなくイエスによって救われ変わっていける。ダビデのようにその当時の社会で末っ子と言う「弱さ」と思わ れたていたものが、神にあって強さになり、俺たちの愚かさを通して神の知恵が現れる。

すごく簡単に説明したが、基本的にこのような解釈の仕方になる。もちろんこの視点から様々な福音の適応はクリエイティブにできる。でも根本的な違いは分かってくれただろうか?

こ のような読み方や解釈の視点はすべての聖書箇所に適応される。アダム、アブラハム、ヤコブ、ダビデ、エステルのストーリーさえもイエスと福音が完成形とな り、彼らはイエスの形でを示す存在だ。預言者も律法の性質と目的ですら福音を示している。新約でのイエスの教えの本来の意図や例え話も、すべて福音の要素 につながる。

このような読み方になると、神様を発見し、「自分が願う神様のイメージ」ではなく、聖書が示すバランスのとれた神様の存在を学ぶ。神様のしてくれた ことに感動するようになり、神様を知ることにワクワクする。読むたびに良いクリスチャンになれない自分に罪悪感を感じるのではなく、「できない自分」です らすべて分かった上でイエスを与えてくれた神に感謝し始める。それと共に、「こんなに恵みを与えてくれた神」を本当の意味で感謝することに繋がり、「従わ なければ」という恐れではなく、あふれ出る「従いたい」という思いから神に仕えることができる。イエスが言うように、「多く赦された者は多く愛する」が現 実になる。これは「もっと罪を犯して、もっと赦してもらってから愛すること」ではなく、イエスの福音を深く理解することにより、「どれほど赦されているか を理解すること」から生まれる愛と感謝のことだ。

福音を土台に聖書を読むとき以下のことを頭に入れて読んでみてほしい。 1.神様は何を求めているか?(聖書が示す神の基準) 2.なぜ俺たちはそれを出来ないのか?(罪と自分たちの弱さ愚かさという問題) 3.イエスはそれを解決するために福音(十字架の死と復活)を通してどうやって解決したか?(イエスの中での解決) 4.そしてどうその福音を自分に適応することにより変わり、神様の基準や求めていることに従えるようになれるのか?(福音の適応)

気を付けてほしいのは、すべての要素をしっかり考えることだ。2番目で止まってしまったら、さっきも書いたように、罪悪感や自分の弱さに失望しただ けで終わってしまう。できても自己啓発で終わり、出来ない人を蔑む。3番目だけでも、「神様感謝します」だけで自分は何も変わらず変化もなく、結果的には 福音を分かってないことになる。4番目まで適応して初めて福音を信じ受け取り理解したことになる。

これらの要素は、牧師という立場である自分も教会に語るメッセージで必ず入れ込まなくては言えない要素と思っている。

2番目までしか伝えないメッセージだと、ただ人々に「はい。じゃ自分たちで頑張ってください~」、または「だからお前たちはできないんだ」や「俺は できている。だからお前らもやれよ」というメッセージになる。基本的には罪悪感を用いて人々を変えようとしているようなものであり、ある意味「自己啓発」 よりたちが悪い。最悪見下すようなメッセージだ。 3番目だけだと、「神様すばらしいですね~。ハレルヤ~」で終わり、何をイエス通して自 分の人生で変えないければならないのかを教えず、理想と現実のギャップがどんどん生まれていくだけだ。最悪のケース、日曜日にはハレルヤで、職場や家では 感謝するどころか全く福音と関係ない人生を生きてしまう危険性も生まれてくる。

聖書は、ただ自分の言いたいテーマやポイントに合わせて、引用すればよいものではない。 それだけでは結局自分の意見や哲学を中心に、聖書を利用しているに過ぎない。

本来は逆でなくてはいけない。神の基準と真実に、俺たちの考えや思いを合わせなくてはならない。メッセージも同じだ。必ずしも、聖書を利用している=聖書的 なメッセージとは限らない。「イエスと福音」という、神がこの世の始まりから意図した計画にある価値感と目的、そこにある様々な神の性質に合わせることに より、真の「聖書的」になる。

キリストを語る教会の牧師として、聖書の真実を語る者として、この責任は重要だ。 福音を正しく伝えていないなら、「他の福音」を伝えてしまっている危険性がある。

そうなるともう別の宗教となる。

俺の個人的な願いは、クリスチャンみんなが自分たちでしっかりとした福音を聖書を読むときに発見し、理解できるようになることだ。そうすることにより真の福音が日本に伝わっていくことを願う。

福音中心とした聖書の読み方は本当に聖書を明確にしてくれると同時に、本当に「神の奥義」、ようは「福音」のシンプルさと同時に深さを教えてくれる ものだ。ここでは書ききれない聖書的な要素もあるので、質問がある方は遠慮なく聞いてほしい。コメントは許可なしにはブログに反映されないようになってい るので、気軽に質問してくれても大丈夫だ。

ではまた次回に。


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