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悔い改める


この概念は、キリスト教 の教えの中でも、一番勘違いされ、または嫌われ、極端にまたは間違って理解されている概念だと思います。私たちにとって、映画やメディアの影響もあり、悔 い改めのイメージはカトリック教徒が懺悔をするようなことを想像します。しかし、そのステレオタイプのイメージは、宗教的、人間的な解釈が混ざってしまっ ています。

今日は聖書的に本当の「悔い改め」とは何かを見ていきたいと思います。

まず最初に理解してほしいことは、悔い改めは「信 仰」と同じぐらい大切な事だということです。最近の教会のムーブメントやキリスト教の教えでは、「信仰」や「信じること」、「神に頼る」ことに極端に強調 されている傾向があると思います。もちろん信仰の要素は、絶対に必要不可欠です。しかし本当の信仰の概念を理解するためには、「悔い改め」を理解せずには 正しく理解することはできません。なぜなら、福音書の中で特にマルコ福音書では、イエスもバプテズマのヨハネも初めから、「悔い改めて、信じなさい」の2 つを常に強調してきたからです。信じる事に関連する、トピックは受けが良いです。将来、ビジョン、希望、新しい、癒し、変化などエキサイティングな事ばか りです。普通に考えても「悔い改め」というネガティブに思えるものを考えたくないと思うかもしれません。しかしこの概念の理解なしでは、「福音」を正しく は知ることはできません。なぜなら何から「悔い改め」、人生の方向転換をして初めて、「良い知らせ」が本当の意味で心に突き刺さるからです。

まず、一般的に誤解されている「間違った悔い改め」から見てい見ます。

皆 さん、また僕も含め、悔い改めというと、何かとてつもない悪いことをしたとき、「泣き崩れて」、「赦しを請う」ことを考えるでしょう。牧師や神父にそのこ とをさらけ出し、神の前で跪く。もちろん、このようなことはしなければいけない時は人生であります。またはクリスチャンになって、改心した時だけ悔い改め ると考えている人もいるでしょう。でも考えて見てください。これだけが、悔い改めだとするなら、このような悔い改めはただ、ただその「行動が悪かった」か ら、「してしまった事」にだけ悔い改めていることになります。

例えば、あなたがパートナーや友達に、「酷い事」を言ってしまったとしましょ う。通常、私たちはそこで、「ごめん。そんなつもりはなかった。」、「つい感情的になって言ってしまった」などと謝ります。でも悪かったのは、「言った言 葉」だけでしょうか?イエスはこういったはずです、「心にあるものが口から出る」と。要は、実際の問題は、「つい言ってしまった言葉」ではなく、「心にあ るもの」なはずです。傷つけられた相手も、私たちが言った言葉の裏に隠れている、「心の冷たさ」、「怒り」、「プライドや見下し」、「拒絶」によって実際 に傷ついています。 このような「表面だけの悔い改め」は、実は「言い訳」や「自分の本当の間違い」を覆い隠そうとしているにすぎません。 前回のクロスチャートで言うと、自分の罪深さを見なくて済むように「ふり」をしているのです。言ってしまったこと、やってしまった事だけ謝っておけば良い と考え、心の奥底にあるものと向き合うことを避けています。実は私たちはこのようなことは日常してしまっています。 自分は2人の娘を持つ 親ですが、娘たちが喧嘩する時よくこう言います、「先に手を出した方から謝りなさい」、「原因を作った方から謝りなさい」、小さい時は、とにかく「ごめん ね。って言いなさい。」 それであたかも事が済んだようにしてしまっています。言われた子供たちも、ふてくされながら「ごめん!!」と言います。でも考え て見てください、ただ「ごめんね。」と言えば良いのでしょうか?真に悔い改めて謝っていますか?そんなことはありません。ただのカバーアップであり、それ をすることで、罪悪感を避け、その問題を後にして人生で先に進みたいだけです。本当の心の問題には全く触れていません。

では本当の悔い改めとは何でしょうか?

それを理解するには、もう少し私たちの「偽の悔い改め」や「言い訳」を分析する必要があります。次は、私たちがよく使う、間違った脱出方法です。

後悔-「そんなつもりはなかった」、「つい感情的にそうなってしまった」、「そんなことをしてしまって信じられない。自分にガッカリしている」。 解決法-「次回は態度を変えます。」、「もう2度と同じことはしません」。

何をしているんでしょうか?言い換えるとこう言ってます。

まず、最初の後悔は、「私は本来そんな人間じゃない」と言っているようなものです。自分が本来そんなに悪い人間じゃないと言っているんです。 2 番目の解決法は、あたかも「自分で自分を変えられる」と思った上での発言です。自分に自分を変える力があると勘違いしています。良く考えて見ると、「福 音」の概念からとてもかけ離れていると思いませんか?まず私たちは、皆罪人であり、人として皆壊れています。イエスが「良い方は一人(神)だけだ」と断言 したように、私たちは基本的に「良い人」ではないことは、みんな心では分かっているはずです。

2番目のことも同じです。イエスは、「私なしではあ なた方は何もできない」、「あなた方にはできないが(救い)、神にならなんでもできる」と言いました。本当のキリスト教の福音は、私たちが正しい生き方を できなかったからこそ、「イエスが代わりに私たちが生きるべきだった義を生き、私たちの受けるべき罰である死を死んでくれた」であるはずです。

でも「自分はそんな悪い人間じゃない」、「自分は自分を変えることができる」と思っている限り、まだ福音を分かっていないことになります。努力すれば問題を解決できると思っているのです。

こ のような後悔と解決方は、私たちの他の人々への態度をも影響しています。なぜなら、自分たちを「過剰評価」しているため、他人にも同じ「厳しさ」、「裁 き」、「非難」で接してしまうからです。もっと醜いことに、私たちは自分や自分自身の罪に対しては情け深く、他人に対しては、基準を上げ、見下し、自分は マシだと憤ります。そして自分で自分を変えられると思っている為、自分のように成長せずに、あまり早く変化しない他人にはイライラします。そうして裁き、 忍耐がなく、そして批判します。

どれほど、私たちが作り上げてしまった間違った悔い改めのシステムが、腐敗しているか分かるでしょうか?私たちは、「偽の悔い改め」の達人になってしまっています。

本当に福音を理解するとき、福音は私たちを正しい悔い改めに導いてくれます。聖書的な悔い改めは、「神のみこころに添うた悲しみは、悔い(後悔)のない救いを得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」(1コリント7:10)と聖書は言っています。

なのでここから、聖書の「悔い改め」は何なのかを簡単に見ていきます。

まず最初に、本当の悔い改めは、ただ自分の為に自分のしたことを悲しみ、悔いるのではなく、神様に対して悔い改めます。

ダ ビデ王は、とてつもない罪を犯した王で有名です。惚れた人妻の夫を殺し、その妻と寝て妊娠させ、結局奪ってしまったのです!もうイッキに十戒のほとんどを 破ってますね~。不倫、殺人、嘘つき、詐欺師などなどとんでもないことをしました。そこで、預言者ナタンが、それを指摘して、逆ギレしたダビデに、「その 悪の張本人はお前だろ」と言った時、ダビデは本当に悔い改めこのように言いました。「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事 を行いました。」(詩編51:4)。

最初は、え?と思うはずです。人を殺して、妻を奪って詐欺をしておいて、「神様だけに罪を犯した?」って何? と思うかもしれません。でもダビデが自覚したことは、「自分の心の奥底にあった罪と、そして真の神を神としてなかったこと」だということです。美しいバテ シバの裸を見た時、「彼女が神の代わりに本当に満たしてくれるかもしれない」と心で思ったことによりすべての悪の行動が始まったということです。その時点 で、神の救いや存在から来る満たしに頼るのではなく、他の「偽の神々」に頼ったからです。私たちも同じように、すべての行動原理は、本当に満たしてくれた り、崇拝しているものを元に行動し、感情的に反応し、心が動くからです。前回のブログも参考にしてください。 次に、本当の悔い改めの動機は「真の神からくる悲しみであり、ただの自己中心的な後悔ではない」と いうことです。ただ自分が悪いことしたから「ごめんなさい」ではなく、上のダビデの例のように。「神を裏切り、真の神を神としてなかった」ことに対する本 当の悲しみです。要はその罪を犯した時点で、イエスの苦しみと十字架でしたことを一瞬でも忘れてしまった事を悔いることです。よって、「外面的な行動を正すことだけでなく、心を変えることに焦点を置く」ということです。

詩編51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

そして最終的には、自分の力に頼って自分を変えようとするのではなく、イエスにしか自分を変える力はないということを自覚し、イエスに頼ること(信じる)ことをすることです。 使徒行伝3:19-20 「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ちかえりなさい。それは、主のみ前から慰めの時がきて、あなたがたのためにあらかじめ定めてあったキリストなるイエスを、神がつかわして下さるためである。」

考 えて見てください。もしここでイエスに頼らず、頑張って自分で変えようとして、失敗したらどうなるでしょうか?この行動自体、「自信過剰」からきているの で、失敗した時に自分を責めます。そして自分に失望し、最悪のケース絶望に代わります。でも本当の正しい悔い改めは、そのような最悪の悪循環からも救って くれます。

自分の罪に対して言い訳をし、自分勝手な後悔と努力のパターンに陥る代わりに、福音による悔い改めは、私たちを真の認識と悔い改めに向かわせてくれます。

認 識とは、「そうです。私はその罪を犯しました」(私はそのような人間です!)と本当の自分の姿に向き合うことです。それから本当の変化が始まります。ナル トが「真実の滝」で悪の自分と向き合い受け入れたことにより本当に強くなっていったように!笑 それを拒否している限りは、自分の宗教の世界観に浸ってい るにすぎません。

悔い改めとは、「イエス様。赦して下さい。あなただけが私の希望です。」と自覚することです。 福音の真実と光の中で生き る時、このような悔い改めがもっと日常のものとなっていきます。その結果、自分の罪によって驚かされることもなくなり、常に正直になり、すぐに自分の過ち を認められるようになっていきます。自分たちの力で自分たちを変えられるとい思いを止め、すぐに赦しと変化を求めてイエスに頼ることができます。

言 い換えると、悔い改めとはライフスタイルそのものです。罪は、単なる悪い行動だけを指す言葉ではありません。私たちの「状態」そのものを指す意味合いもあ ります。よって悔い改めとは、私たちがイエスの救いなしでは「罪人」あり、それを常に自覚して謙遜であり続けるという意味でもあります。でも同時に、信仰 によりイエスの福音に頼り、そこから変わる力と自信を貰い、謙遜かつ大胆に生きていける、クリスチャンの生き方の基本です。「悔い改め」と「信仰」の両方 をしっかり心に入れ、理解し、生き始めたとき、本当に変わっていける力をイエスにあって持ち、生きることができるはずです。ある先生は、この2つを、キリ スト者のエンジンの2つのピストンのようなものだと言いました。この2つがちゃんと機能した時、エンジンが動くということです。

最後に、「悔い改め」の概念は、ただネガティブで痛いものではなく、神様の父としての愛だということも分かってください。悔い改めはクリスチャン人生で常に持つ姿勢であり、罪への確信は父なる神の私たちへの愛の証拠です。

「すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。」(黙示録3:19)

次回は、もっと実践的に、この概念をどう生きるか見ていきますね。

ではまた!


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