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本当の赦し


以前にもこの内容は書き ましたが、最近自分にとって再確認させられているのが、聖書的な「本当の赦し」の概念です。私が感じるに、「赦し」という概念は、キリストの福音のメッ セージの中核でもあると同時に、神学的にズレて理解してしまうと一番誤解され、間違って教えられてしまうことだと思っています。

なので今回は聖書的な赦しの概念をしっかり理解し、私たち自身をチャレンジしていきたいと思います。

「赦し」は、キリストの福音のメッセージなので、聖書全体で把握することができると思います。もちろんイエスの生涯と十字架を見ても分かりますが、この概念をしっかり説明している代表的な聖書箇所は、放蕩息子の例えやイエスの教えにあるにあると思います。

赦 しとは、私たちがクリスチャンになり、福音によって内側の心が本当に変えられるなら、自然に神様によってできるようになっていくものです。福音は内側 (inside)で本当に機能しているなら、私たちの外側(Out)に福音の影響を自然にもたらすからです。それは必ず人間関係や私たちの社会での生き方 に影響してきます。ハッキリ言ってしまえば、他人を赦せないのであれば、本当に福音を理解していない、そして体験していないことになります。

で も皆さんが知っているように、赦すことは簡単ではありません。考えて見てください。本当に自分を傷つけて来た人、裏切られた場合、虐待を受けた場合、自分 を犠牲にして昇進を勝ち取ったり、噂話をされたことにより名誉を傷つけられたり、浮気されたりしたらどうでしょうか?または自分の子供や家族を殺されたり したら?正直、赦すことは絶対に不可能に思えます。敵を愛するなんてことはできないと感じます。

私は神様に赦されているから、赦さなくては いけないことは分かっています。でも現実的には、神が求める赦しの理想や基準と出来ない自分のギャップがあります。そこで私たちはその穴を埋めるために、 「赦し」の概念をできるだけ低くし、「自分ができる範囲」に都合よく変えてしまいます。私自身よく他のクリスチャンからこう言うことを今まで聞いてきまし た、「聖書には“赦さないと神も私たちを赦してくれない”とあるからただ赦しなさい」、「赦しは、相手を解放することだから、決断してそうすれば良い」、 「相手と完全に和解しを信頼することではない」。

でも本当にこれらの赦しの解釈は聖書的なのでしょうか? 赦しとは「赦したくないけど赦す」仕方なくするもので良いのでしょうか?嫌でも自分自身を解放するために努力でできる単なる「決断」なのでしょうか?または本当に和解や信頼を取り戻さなくて良いものなのでしょうか? いや違います。本当の赦しとはそんなに都合のよいものではありません。実は神にとっても犠牲を伴うほどとてつもなく重いものだと聖書は言っています。

イ エスはこのように言いました、「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したな ら、 24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい」(マタイ5:23-24)

まずこの聖書箇所だけでもわかると思いますが、「赦し」は受け身ではないということです。私たちは良くこのように言います、「あいつが謝れば、悔い改めれば 赦す」と。でもこの聖書箇所で、最初に行動しろと言っているのはどちらでしょうか?罪を犯した兄弟?それとも被害者の神に捧げものをしようとしている方? そうです、被害者がまず行動を起こせと言います。僕も最初は、え?何で?と思いました。加害者がまず行動するべきでしょう?と普通は思います。しかも被害 者から和解しろとまで言います。 放蕩息子の話でもそうです。被害者のお父さんは、息子が謝るかどうかはまず気にしていませんでした。ただ「息子が戻って来る」ということを気にしていました。そして息子が遠くから見えた瞬間に出ていき出迎えました。

赦 しとは、単なる自分が「苦み」から逃れるためにする自分中心の「決断」ではありません。嫌々するものではなく、心から和解したいという思いです。本当の赦 しとは、加害者の相手との和解と関係修復を求めるところまで行きます。赦しのギリシャ語の意味は、「恵みによって関係を修復する」という意味が本来の「赦 し」とされています。どんなに酷いことをされても、和解したいという態度と思いがなければ本当の赦しではないということです。

この 放蕩息子のストーリーで、私たちは「弟の方の息子が悔い改めた」と思っています。でも実際に彼が悔い改めたかどうかはわかりません。考えて見て下さい。彼 が家に帰りたいと思った理由ですら、「自分が惨めになったから」です。しかもお父さんの心や恵みを分からず、自分がしたことを「働いて払う」ことができる と思っていました。すべて自分中心と自分の利益の為に帰りました。「天とあなたに対し罪を犯しました」と自分の罪の認識だけでは、本当の悔い改めにはなり ません。それでもお父さんは、まず「戻ってきてくれた」ことが嬉しかったのです。そして関係を取り戻せるチャンスができたことを。

この基準 が真実なら、私たちがある人を意図的に避けていたり、無視したり、関係を持たないように距離を置こうとしている状態ですら、赦せていないということです。 なぜなら神の究極的な思いは、すべての人と関係を持つことです。その心を理解するクリスチャンであるなら、常にどんなに苦手だと思う人でも良い関係をいず れは持ちたいという思いがあるということです。でも実際に私たちはそのように生きていますでしょうか?逆に、自分の都合よく人を避け、気が合わない人とは 関係を持とうともしません。少しでも都合が悪く、自分に不利になると、言い訳をして「赦す」けど、関係は持ちたくないなどと言います。でも和解と修復した 関係を持つことを願うことが「本当の赦し」なのです。

本当の赦しはもっと先を行きます。聖書的な赦しは、相手が自分にした痛み、 傷、恥、悲しみを自ら飲み込むことだと言っています。赦しは犠牲を伴うものです。それは私たちが相手から負債を受け取るべき権利があると思う時に、その負 債を帳消しにすることと同じなのです。これもまた信じられないことです。普通は、酷いことをされたら、「絶対あいつに償わせる」と思うはずです、「そうし たら赦す」となります。でも、「払うべきものを払ったら解放する」とは、聖書的ではありません。なぜならイエスは、「私たちが罪人であり敵だった」ときに 私たちの罪を背負い死んでくれたからです。要は同じように、加害者である私たちの過ちを丸飲みにしてくれた訳です。それだけでなく、本来私たち加害者が受 けるべき罰でするら受け取ってくれたわけです。それがどれ程重い事なのか分かりますか?自分を傷つけ、裏切り、浮気し、悲しみと恥をもたらした相手の罪を 飲み込み背負ってまでして、初めて「赦し」となります。何故なら、和解をする上で、それらの負債が邪魔しているからです。しかも自らその妨げを取り除くの です。正直言うと、私には絶対に不可能なことです。もし自分の子供を殺されたら、憎しみと怒りと復讐心にかられます。でも、赦せない時、同時に私は忘れて しまっているのです。自分の罪が、一度「神の子」というイエスを殺し、十字架に張り付けてしまっていることを・・・。現実的には、そこまでの悪を自分に対 してした者を、本当に赦し和解の為にドアを開くことは、時間がかかりますし、無条件の愛を基本的に持てない私たちには困難なことです。

皆さ んが気付いて分かる通り、これらの赦しの概念は、すべて神様がすべてイエスを通して私たちにしてくれた福音そのものです。理論的には、私たちはそのことを 心では分かっています。でも同時に赦せない心を正当化しようとしています。ではこの矛盾をどうしたら解決できるのでしょうか?

それもまた福音に頼ることです。福音はただ「赦し」の概念を示してくれるだけではなく、それを行う力も私たちに与えてくれます。究極的に赦せないのは福音を理解し、イエスに頼ってないからです。

あ るイギリスの説教者がこのようなに赦しを例えました。彼は「赦し」とは神にとっても非常に難しい課題だと言いました。それは、神はこの世界を、言葉一つ で、「光あれ」といっただけでそれがすぐに実現したのに、罪を犯した人間に「赦しあれ」としたときに、その赦し(和解と救い)が完成するのに何千年も何世 紀も掛かったからだと言いました。

それはこの例えからも説明できます。ピーターという人が道を歩いていたとしましょう。そしてあるジョニー という男性がいきなり襲い掛かってきて、ピーターの持っている物を奪い重傷を負わせました。その後ピーターは病院で目を覚まし、警察の人や裁判官の人々 に、ジョニーを告訴するかどうかを聞かれます。ピーターはクリスチャンで神の赦しを知り体験していた為、「告訴をしないで、ジョニーを解放してくれ」と言 います。でも警察の人々はこう答えます、「あなたの優しさと寛大さには感嘆します。でも今回のことはそんなに簡単ではないんですよ。このまま加害者のジョ ニーさんを何の責任も取らせずに解放することは、社会的にも簡単なことではありません。そのようにしてしまったら、そのような残虐な行為を軽んじ、何でも なかったとすることは社会的規律や模範上できないことです。」 誰かがその責任を取らなければなりません。

実はこの私たちにとって当り前の 社会的システムは神様のユニバーサルなシステムでも同じです。正義という名のもとに、神様ですら、正義を持つ神として、重い罪を何でもなかったようにする ことは簡単にはできなかったということです。同時に、神様は「赦したい」という愛と恵みがあります。罪を軽んじ、なかったことにすることは神の性質的には できないことです。そして対処法としてどのような形で神が「赦し」を実現したかは、私たちはイエスを見れば分るでしょう。神は結局、私たちの罪のすべてを 背負い飲み込んだわけです。

私たちの問題は、神様の犠牲の重さと愛の深さを十分理解していないことです。イエスの十字架の概念を知っている けど、「神様は愛の神だから」と簡単に言い、神のしてくれたことを軽く見ています。神がその愛を実行するためにどれ程の犠牲を払ったのかを理解していない のです。頭で分かっていても、経験していないのと同じです。単なる宗教的な理想としてでしか捉えていません。

こういう日本で実際にあった話があります。

あ る夫婦がいました。奥さんの方は、結婚の中半で、クリスチャンになり教会に行き始めました。でも夫は、イエスを拒否し、宗教は嫌いだと言い、教会にもいき ませんでした。ある日、夫が隠れて愛人を作り浮気をし始めました。夫はうまく隠しているつもりでずっとそのように妻を欺きながら結婚生活を続けていまし た。しかし妻はずっと夫が浮気していることをしていました。そして愛人が誰かも。でも妻は夫にいつか打ち明けてほしいと思いながら耐えてきました。何十年 か経ったある日、夫の愛人が事故で無くなってしまいました。そして葬式の日に、夫は居間に座っていましたが、自分の愛人の葬式に行けずに迷っていました。 行けば浮気がばれると思っていたからです。それを見ていた妻は、夫の前に座りこう言いました、「あなたが何故ソワソワしているか分かっています。あなたの あの人のお葬式なんでしょう?私はずっと知っていました。そしていつか私のもとに戻ってきて欲しいと祈り続けていました。だからお葬式に行ってください。 そしてそのあとは私のところに戻ってきてください。」と。それを聞いた夫は、ショックを受けました。今まで知っていたこと、そして妻がずっと耐え抜いてき たことに。そして彼女の愛にです。その瞬間、夫は泣き崩れました。自分が妻にしたことの重さ、そして罪の罪悪感に駆られました。そして同時に妻の尋常では ない愛に心打たれました。そして彼はこう言いました、「お前の神は、本当だ」と。その後、彼は本当に変わりイエスを受け入れ信じました。

彼 が体験したことは、私たちが本当に福音を理解し体験する事と同じようなことだと思います。彼女は、浮気を知った時点で責め非難し、離婚すると言うこともで きたでしょう。でもあえてそれをしませんでした。例え責めて、夫がか「形上」の結婚を取り戻し変わったとしても、夫の愛がまた生まれるかどうかは分からな いからです。自分勝手な理由で自己中心の罪悪感で、夫も態度は変わることもできたかもしれません。でも本当に彼を変えたのは、普通では考えられない超越し た愛でした。それを体験し理解した瞬間、自分の愛のなさ、情けなさ、そして非情さという現実に向き合わされました。そこで心から申し訳ないと感じ悔い改め ました。「形上」の行動だけではなく、心から変わりたいと思いました。そして妻を愛したいと思えるようになりました。恵みと愛に打ち砕かれたからです。も ちろん妻も神の愛なしにはこのような忍耐強さと愛は持てなかったでしょう。そして、もちろん常にすべての浮気が同じ方法で解決できることでもありません。 時には真実をもって、相手を悔い改めに導く必要はあります。

究極的に、私たちには、彼と同じ心からの変化が必要なのです。福音を理解するだ けでは十分ではないのです。福音にある神の超越したとてつもない恵みと愛の体験なしには、自分の本当の醜さと現実に向き合い、本当の悔い改めをすることは できません。そして心底変わることはできません。福音の素晴らしさの体験なしでは、「形上」の宗教的な、行動と自分の努力でとどまります。赦しも、「決 断」と「解放」」とだけ考え、和解したいというハートなしの冷たい「形上」のものとなります。

本当の赦しは、私たち自身の力では、絶対に不 可能なことです。「赦し」は神ですら犠牲を払い、時間をかけて成し遂げた究極の奇跡と愛の表れです。ある意味、私たちは「赦し」をなめています。軽んじて います。本当に福音が自分の中で、機能しているときに、神は神の愛と力によって、自然に私たちを超自然的に赦せるようにしてくれるでしょう。

あ なたが無視している、避けている、突き放している、信頼しないからと言って距離を置いたままの友情や関係は何ですか?「アイツに誤ってもらう、償わせてや る」などと思っている人は誰ですか?そのような態度を持っているならあなたは人を赦していないことになります。要は福音を信じていながら、福音の価値観に 生きていないことです。結局偽善の生き方です。考えて見てください。神はあなたに対し同じことをしましたか?「お前は罪を犯した、信頼しない」と言いまし たか?あなたを突き放しましたか?逆です。私たちが神様に興味も示さない時に、自ら痛みと悲しみを飲み込み、いつでも和解できるように道を作ってくれたの です。ただ戻ってきてほしいと。なのになぜ私たちは、その愛と逆のことができるのでしょうか?なぜそんなに冷たく非情なのですか?私たちの責任は、ただそ の神の愛を知り感動し、心砕かれ立ち返ることです。

人を赦せないということは、「相手が自分にした罪の方が、自分が神に対して犯した罪よりも重い」と言っていることです。「自分の罪は赦されるべきだが、お前の罪は赦されるべきじゃない」と言っていることになります。自分に甘く、相手には厳しい最悪な行為です。

赦 しとは、相手が自分にした罪の負債を自ら払い、痛み、悲しみを飲み込み、更に相手が悔い改めていつでも戻ってこれるように和解への扉を開けておくことで す。苦みを超えて、無視せず、突き放さず、相手が戻ってくることを切に願い、率先してまず一方的に願い行うものです。それが神がしたことだからです。

福音に戻りましょう。そして本当に他人を愛し、赦せる生き方を生きましょう。時間はかかるかもしれません。でもイエスと本当に歩んでいるならできるはずです。

ではまた。


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