2週間ほど前の教会のメッセージとなりますが、凄く重要な内容であった為、フィードバックも多く、ブログにもこの概念を載せておくべきだと思いました。
今 回はダビデとサウルの関係、そしてなぜサウル王が神から油注ぎ(祝福され使命を与えられた)を受けていたにも関わらず、どんどん悪に染まっていったかを見 ていきたいと思います。実は彼が持っていた問題は、どのような人も持っています。ですので、彼のようになっていく事を避けるように福音の解決を見ていきた いと思います。今回見ていく聖書箇所は第一サムエル記18:1-16になるので、まず読んで見て下さい。
7~9節 女たちは踊りながら互に歌いかわした、「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」。 8サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではな いか」。 9サウルは、この日からのちダビデをうかがった。
これはサウル王がダビデを嫌い、嫉妬し始めたことが描かれている場面で す。この時、ダビデはゴリアテという巨人を倒し、当時のイスラエルの国を救った後、すぐに起こったことでした。そこで女たちは、サウル王とダビデの勝利を 喜ぶために、歌って踊っていました。この前の節では、女たちは「サウル王を迎えた」ともあります。しかし、女たちが歌った内容がきっかけでサウル王はダビ デに嫉妬と妬みの心を持ち始めました。いずれその思いは殺意となり、結局自分をも破壊するような問題に変わっていきます。
この「嫉妬・妬 み」とはどのような問題なのでしょうか?実は嫉妬や妬みは、一番私たちが問題があまりないと思っている罪の一つでもあります。ある意味、私たちは嫉妬と言 うものを軽く見ています。例えば、私たちは、嫉妬を利用してビジネスをします。テレビのCMでは、「美しい髪の毛を持ったモデル」が出てきます。そしてこ う言います、「このような髪の毛が欲しくありませんか?」と。そうなら「このシャンプーを買えばそれを手に入れられます!」と。何をしているんでしょう か?自分が持っていないものに目を向けさせ、それを得るために嫉妬心を引き出し、製品を買わせようとしています。これはファッション業界や、様々なビジネ スでも同じです。バラエティー番組では、「ある芸能人が他の芸能人にこの部分で嫉妬している!」と言い、それがくだらないことで、私たちは笑います。結局 は、嫉妬や妬むことが当たり前であり、他の罪に比べそんなに悪いことではないと考えています。でもサウル王にとっては人生が落ちていく悪の始まりでした。
実は、嫉妬・妬みは罪の中でも、かなり危険な落とし穴があるものです。ある意味一番厄介かもしれません。この問題は、まず自分と他人を比べることから始まっています。自分が持っていないものを相手が持っているとき、自分が祝福されていない分野で、他人が祝福されているとき比べることによって起こります。サウル王の場合は、自分が受けた称賛が低く、ダビデが受けた称賛の方が多かったからです。
嫉 妬や妬み以外の大概の罪は、一時的な「快楽」や「幸せ」を与えてくれます。不倫や貪欲に食べ過ぎることで一旦快楽を得ます、嘘をつくことで一旦成功した り、噂話をすることでも、相手を貶すことで、優越感は一時的に得られます。しかし、嫉妬と妬みは違います。まず相手の祝福や成功、持っている物を喜べなく なります。それだけでなく、自分に既に与えられているものにも満足しなくなります。要は、相手からも自分からもすべての「喜び」を奪い去る罪なのです。
実 は、アダムとエバの最初の罪も同じでした。善悪の知恵以外の実はすべて彼らには与えられていました。エデンというパラダイスも最高な神様との関係をも持っ ていました。でもある日、悪魔は彼らにこう言いました、「神は、お前たちには最高な実だけは与えていないんだ」と。その一つ以外の実は全部与えられていた にも関わらず、「持っていない」ものに目が向き、既にもらっている物ですら十分ではなくなったのです。その瞬間、神を信頼できなくなりました。すべての喜 びが取られてしまいました。
悪魔も同じです。彼は天使の中でも最高位の賛美リーダーであり、特に美しくパワフルな天使でした。そして天国という最高の環境にいたわけです。でもある日、「あれ?俺ってナンバー2じゃん?」と思いました。その瞬間、天国ですら、神の存在すら喜べなくなりました。
嫉 妬・妬みは、私たちが持っていないことに目を向けさせてしまい、そして他人もそれを持っているべきではない、祝福されるべきではないという思いから来ま す。ハッキリ言えば、相手が祝福されていることを素直に喜べない時、それは既に嫉妬・妬みと言うものなのです。そして、「あいつはそれを持つべきじゃな い」と感じ、そして相手からもそれを奪おうとします。最初は、軽い嫉妬かもしれません。でもそれは伝染病のように心を蝕んで行きます。サウル王は、この妬 みから始めり、結果モンスターになってしまいました。
私たちにはその危険がないと思っているなら大間違いです。自分の方が成功するべきだ、または祝福されるべきだという思いが少しでもあるなら、それはすべての悪に繋がっていきます。
サ ウル王の人生では、興味深くこの問題が発展していきます。最初は、ダビデを殺そうとは思っていなかったでしょう。でも、自分の王位がドンドン危うくなって いく事を感じました。そして周りの人々もダビデの活躍や成果により認め始めました。そこでダビデを存在を消さなくてと思い始めます。でも人気者のダビデを 公に殺したりでもしたら、人々の反感を受け、王位も危うくなってしまいます。最初は、色々と事故を装い、殺そうとします。槍をどこかに投げたふりをして、 「あ、そこにダビデが丁度いた」って言う感じで殺そうとしたり、わざと戦争の最前線に行かせたりしました。でもそれでもダビデは、危険を避け、それだけで はなく、結果的にもっと多くの成功を達成します。サウル王にとってどんどんダビデが脅威になってきます。
私たちも同じことをしてませんか? 嫌いな相手や脅威に思う存在がいれば、殺さずとも、悪口を言います。どうにかしてそいつの欠点や罪を掘り起こそうとします。「あいつはそんなにイイ奴じゃ ないとか、実は嫌な奴だとか」と言います。できるだけ自分の方が優れていると見せようとします。ゴシップもそうです。ツイッターで、ある女性が「私のすっ ぴん~」っていう感じで、セルフィーを載せれば、「絶対少し化粧している!」と突っ込み、心では「そんなに可愛くないだろ」と自分に言い聞かせます。ある 女性の顔が可愛ければ、「でもスタイルは悪いよね~」、スタイルが良ければ、「顔はあんまりじゃね?」。顔もスタイルも良ければ、「でも、あの子のひじは カサカサじゃん?」などと、とにかく欠点を見つけ相手を蔑みます。ある人は、ビジネスで「俺の方がスキル」がある、「金を稼いでいる」、金はないが「知識 はある」、美人じゃないが「アイツより一般常識はある」と。クリスチャンなら、「私はアイツよりもちゃんと聖書読んでいる」、「毎週教会に行っている」、 「奉仕している」とし、そうでない人を蔑みます。牧師なら、「私の教会の方が大きい、活躍している」かもしれません。または自分の教会が大きくなければ 「神学的にあそこより正しい」かもしれません。何をしているんでしょうか?呪っているんです。相手の存在を喜べず、受け入れられず、究極的には心で相手を 否定する、心の暴力です。
サウル王が槍をダビデに投げる場面で、「神の悪霊がサウルに激しく臨んだ」という説明があります。最初これを読ん だときに、「え?」と思いました。「神からの悪霊が来るのか?」と思いました。これは日本語の訳が少しオカシイので分かりずらいですが、英語では、 「harmful spirit(傷つける霊)」と訳されています。それでも、「え?神様の霊は傷つけるのか?」と思うでしょう。でも、これは簡単に言うと、私たちの嫉妬心 と神様が作った霊的な世界の自然な理と一致してしまうことを意味しています。旧約聖書では、ある人の欲望や貪欲な罪的な思いが、強すぎる場合、神様はその 思いを任せるような場面が何度も出てきます。ローマ書1:24では、「それゆえに神は、彼らを心の情欲のままに不潔に渡されたので」とあります。ある旧約 聖書に出てくる、預言者バラムは、イエスラエルの預言者であったにもかかわらず、ある王様に自分の民を呪うようにお金でつられました。最初は、神様に聞い たところ、「絶対に行くな」と言われたにもかかわらず、お金欲しさの思いが強く、もう一度神様に聞いたところ、「じゃ、行けば」となります。でもその直 後、乗っていたロバが突然しゃべりだし、バラムを止めなければなりませんでした。これも同じです。バラムは最初の神の言葉は分かっていたはずなのに、もう 一度「神様に聞いてみる」などと言い、自分の欲望に負け、神の言った事を自分で変えました。
サウル王もまったく同じでした。初めは嫉妬だけが、その感情と思いがあまりにも強くなり、結果自分をコントロールできないほどになりました。結局、神によってではなく、自分の強すぎる思いにより、人生が進んで行ってしまいました。
サ ウル王にとって、一番失いたくないものは、「王位」という名声とポジションでした。それだけは絶対に失いたくなかった為、嫉妬が殺意に代わって行きまし た。実は、私たちも同じです。自分が、「絶対に失いたくない」と思うものが脅威にさらされた時、私たちの本性が現れます。それが究極的な「神」として自分 の人生が機能しているからです。それはあなたが「成功していること」かもしれません。その場合、恥をかいたり負けることに極端に反応するでしょう。「自分 の美貌」なら、もっと美人な人を脅威に思います。本来イエスという存在が、一番の宝であるはずのクリスチャンですら同じです。心の中で、別のものが究極的 に失いたくないものに関し、怒り、落ち込み、ストレスを持ち、心配します。相手がそれを持っていて自分になければ、気に食わず、その人を否定します。牧師 も同じ危険もあります、自分の教会と他の教会を比べ、成長しているか気になります。または自分の教会に来てくれない、または去ろうとしている人、去った人 がいると、自分が否定されているように思い、様々な反応をします。結局は、その人が人生で幸せになってほしい、成功してほしいと思えていないのです。これ らの症状すべては、「相手の祝福を喜べない」と言うことを示しています。結局サウル王と同じ嫉妬・と妬みなのです。そして他人を祝福し、ベストを願えない のなら、それは心で相手を霊的に殺し、暴力をふるっていることと同じです。
どれ程これが恐ろしいことが分かってくれたでしょうか?どれ程、私たちの心に闇が潜んでいるか分かるでしょうか? どうしたらこの危険や罠から逃れることができるのでしょうか?
その答えは、サウル王の息子ヨナタンに表れています。
考えて見てください。ヨナタンには、サウル王とほぼ同じ立場にいました。時期王となる王子でした。ダビデの活躍を脅威に思い、ライバル視して、ダビデが王に なることを止めに掛かるために、悪口を言い、殺すこともできたはずです。サウル王は既に王様でしたが、ヨナタンはまだ王にもなれなかったため、失うものも ずっと大きいはずでした。
でもヨナタンはどのような行動と思いを持ちました?
ヨナタンは、ダビデを愛し、友情を持つことを選びました。今回 の聖書箇所では、ヨナタンが自分の剣や弓、そして王位の象徴の衣までもダビデに渡したとあります。その当時の戦国時代では、目の前で剣を渡すことは、凄く 危険な事でした。その剣で殺される可能性もあるからです。侍の時代と似ています。でもヨナタンは自分をあえて弱くし、危険にさらしました。ダビデに対して 心も身も委ねたからです。それだけでなく、王位の象徴である衣さえも、ダビデに渡しました。要は、ダビデに王になるように言っているようなものです。全く サウル王とは逆の態度です。相手から奪おうとするのではなく、逆に自分の立場や祝福さえも他人に与えています。それだけではなく、ダビデを王とするために 自分の命も失いました。同時に、自分の父親であるサウル王も裏切ることはしませんでした。友に忠実であると同時に、自分の父親にも忠実でした。この行動 は、何かを象徴していませんか?
そうです。イエスが成し遂げた福音のシンボルです。イエスは、天の父の唯一の神の子であり、主であり、全知 全能の神であり、王そのものでした。そのポジションも、財産も権利もすべて持っていました。でも、私たちという本来「祝福に値しない者たち」を友と呼ぶた めに、すべてを捨てました。ヨナタンのように、その友が代わりにその権利を貰う為に自分の命を捨てました。それだけでなく、人間という弱い存在になること で、私たちは王位どころか、罪人であり罪人の立場を代わりに受け取り、彼の王位と神の子供としての権利を与えてくれました。
私たちは、相手 に「アイツは祝福されるべきでない」と思います。でもイエスは、「彼らは祝福に値しない存在だが、それでも私はどうにかして彼らを祝福したい」という思いで接してきます。妬みではなく、逆に犠牲を払ってまでの祝福をです。イエスは、私たちにとってのヨナタンです。ダビデが王となれたのは、ヨナタンの犠牲と お陰であったように、私たちはイエスの犠牲と働きで、義とされ、神の子供とされます。イエスは、父である神に忠実だった故に、神の計画を実行し、同時に友 に値しない私たちを友とし、その友を救うという使命にも忠実でした。
その愛と、恵みと、犠牲を私たちが本当に心底理解して感動しているな ら、どうして他人に対して嫉妬や妬むことができるんでしょうか?どうして彼らの祝福を願おうとしないんでしょうか?どうして自分の友達を否定し無視できる のでしょうか?私たちが人に嫉妬して他人の祝福を願えないでいるのは、十分にイエスが何をしてくれたかを理解していないからです。イエスが自分の一番大切 な存在でなく、他の何かが究極的に大切(神)になっているからです。自分の何かを失うのが怖いんです。私たちの嫉妬心を乗り越える唯一の方法は、イエスの 福音と彼の行動の意味を知って、心打たれる以外に方法はないのです。イエスなしでは、自分が彼らよりももっと多くの持つことで優越感を得て、見下す以外に 嫉妬を消す方法はないからです。でもそれは悪であり、究極的な自分勝手さです。
同時に、ヨナタンにとってダビデは本当の王だったように、ヨ ナタンの存在は私たちをも象徴しています。ヨナタンが自分が「王」になることを諦めたように、私たちも自分勝手な「自分の王様」となることを諦め、代わり にイエスの前で自分の剣と弓(自我と敵対心)、衣(自分を一番だとする自分で作り上げたアイデンティティー)を明け渡す必要があります。私たちは神でもな く、王でもありません。イエスだけがその存在です。それをヨナタンが正直に認めたように、私たちも自分を捨て、悔い改めて初めてイエスをホントの王と認め ていることになります。そしてイエスだけを信じ、頼った時に、自然にイエスの心と態度を自然に持てるようになります。相手から奪うのではなく、祝福し、自 分を犠牲にしてまで、相手の祝福の為に生きることができます。
あなたは、今日どちらの道を選びますか?世の中や周りのプレッシャーに負け、このまま他人を嫉妬し、心で否定して呪い、喜びすら失い、成功や富は持っていながらも惨めになり、あげくの果ては自分の魂も人生も破壊する生き方。
またはイエスを信じ受け入れることにより、ヨナタンのように友を愛し、自分ではなく他人の祝福を心底願い、神の前で正しく生きる人生を選びますか?
「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15章12~13節)
その友はイエスだと知ってほしいです。
福音に戻ろう。
ではまた。