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両親・家族の憎み方


ルカ14:26-27 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 27自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。」

この聖書箇所は、聖書の中でも一番勘違 いされ、誤解され、また悪利用されている聖書箇所だと思います。イエスが宣言した言葉の中には、すごくチャレンジであり現代の人々にとってその文化や言語 のニュアンスの理解がない場合、すごく受け取るのが困難なことが多くあります。その中でもこの聖書箇所はその一つだと思います。

イエスは何故、「捨てる(英語では憎む)」などという言葉の表現をここで使ったのでしょうか?優先順位のことを話したいなら、単純に「私を優先してほしい」とスト レートに言えたはずです。またなぜ「憎む」なんでしょうか?ほかの聖書箇所では、「あなたの敵を愛しなさい」、「悪人も憎んではいけない」言っているし、 「親を敬え」とも、イエスも十字架で「彼らを赦してあげてください」と迫害する人々に対して言いました。本当に自分の親や家族を、パートナーを子供を憎め と言っているんでしょうか?言っていることが矛盾していないでしょうか?

実は古代の文化では、「憎む」という言葉は、一般の意味とはほか に、もう一つ「対照的に比べて」、「愛と憎しみ」という極端な両方を使って大切なことを強調するため使用することがよくありました。例えばこの使い方は、 創世記29章にも出てきます。「ヤコブはラケル愛し、レアを憎んだ」、または神様は「エサウを憎み、ヤコブを愛した」(ローマ書)ともあります。でもこれ はレアを日々憎んでいたという意味ではありません。そのあとではっきり書いていますが、単純に「ヤコブはレアよりもラケルの方に愛情を持っていた」という 意味となります。ヤコブに関しては、末っ子(当時権利が低かった)であった存在に対して、神様が優先順位的にヤコブに愛情を注いだ恵みの神であることも言 えます。

皆さんも、この聖書個所の前後を読んでいて、この発言のポイントは、優先順位であり、弟子となることであることが分かるはずです。 でもイエスがここで強調しているのは、ただ「優先順位的に私を選んでほしい」と言っているのではありません。実はもっと私たちから求めています。それは、 「愛」です。「私を何よりも比べて、親や子供を愛する(Storge)、パートナーを愛する(Eros)、兄弟姉妹(Philia)を愛する以上の愛 (Agape)で私を愛してほしい」という事です。「私はあなたを愛する(Agape)が故に、同じ愛情、情熱そして熱心さで私を求めて欲しい」という意 味です。要は弟子になることは、熱い献身的なクリスチャンだけが弟子になればよいのではなく、すべてのクリスチャンが弟子にならなくてはならないという事 です。なぜなら「弟子」とは、どれほど奉仕と心が熱く、仕えているかが基準ではなく、イエスを本当に一番愛しているかが基準だからです。

こ の時代の文化では、人生の価値観がすべて家族という価値観でほぼ決められていました。家族の価値=社会地位でもある時代です。例えば、誰の息子か=どのよ うな家系か、または長男なら素晴らしい相続権が与えられ、次男ではその権利が低い、男の子として生まれればすでに女の子としてよりも社会的に既に有利な時 代です。要はそれらの価値観が自分の価値を決めていたという事です。それらの社会の価値やプレッシャーを踏まえイエスは、私たちにチャレンジを与えまし た。なぜならイエスという本当の神を何よりも勝って愛することがそのような束縛からの「解放」になると同時に、本当に自分の家族を愛する道だと分かってい たからです。

どういう事でしょうか?

例えば、もしあなたの人生でずっと、自分の父親がプッシュしてきた価値観に生きてきたと しましょう。「良い成績、良い仕事を得なければ良い人間」にはなれないとずっと子供の時から聞きながら育ってきたとしましょう。もし自分の親とその価値観 が、究極的にあなたにとって大切なこと(偶像)なら、あなたはその親が求める基準に達せなかったとき、挫折感と絶望感を覚えるでしょう。達成していたとし ても、あなたは親に依存し、親があなたの価値観と存在意義を決めていることになります。結局、「私は親に認めてもらえさえすれば私自身でいられる」と思っ ていることになります。

これは、パートナーでも同じです。「私は夫に愛されてさえいれば、認めてもらえさえいれば」となります。兄弟や友達 でも、「彼らが常にいてくれさえすれば、認めていてくれれば」。子供では、「私は旦那の愛よりも、子供から愛されていれば」、「子供をちゃんと育てていれ ば私は良い母親となり、良い人間として人生を全うできる」となります。

これらは、本当に親やパートナー、兄弟や子供を愛していることになるでしょうか?実は愛してはいません、彼らを自分の幸せや、存在意義、アイデンティティーや安心と承認のために利用しているにすぎません。

本 当の意味で無条件で彼らを愛せるようになるのは、彼らからそれらのものを貰わなくてよい状態になったときのみです。それは究極的にはイエスの愛と恵みからしかもらえないからです。イエスがこの聖書箇所で言わんとしていることは、「私を愛することは、本当の意味で、自分の親、夫&妻、兄弟姉妹、子供を愛する ことにつながる」という事です。

この聖書箇所は一番、「悪利用されている」聖書箇所だと言いました。その理由は、現代の教会によって悪利用されることが多くあると思うからです。

最近、日本にある多くの教会が極端な「束縛やコントロール」に陥ってしまっている現状あります。そのような教会で、不当な扱いや傷を受けた人々と話す機会がありますが、そこでそれらの教会に共通する点があります。それは孤立したコミュニティーを作ってしまっているという事です。「この教会があなたの新しい家族だ」と強調し、この聖書箇所を利用して、実の家族の繋がりより、会社より、外のどのようなコミュニティーより、教会を優先させるために、忠誠と硬いコミットメントを強要するために、「クリスチャンで本当の弟子なら教会を優先すべきだ」という形で用いてしまっています。

この聖書個所は、本当の家族や普段の人々との関わりよりも、教会を優先しろとは言っていません。実の家族を教会の家族で置き換えろとも言っていません。

「イエスを愛し、優先しろ」です。イエスを優先する=究極的に、家族や友達の価値観に依存したり、振り回わされずに、もっと本当の意味で、「親を敬い」、「自 分とは違う友達や人々を愛せる」ようになるという事なのに、それをはき違えて、今までの親の価値代わりに、教会が一方的に決めた価値観を優先し、教会の リーダーが決めるライフスタイルと生き方に依存しろと言っているようなものになってしまっています。

面白いことに、実はヤクザやマフィアも 結局同じ原理です。イタリアではゴットファーザーやドンのもとに新たな家族ができます。自分の実の家族全体がその世界に入るなら良いですが、入らなければ 決断を強要されます。ヤクザでも、同じシステムで「カタギ」か「組」に分けられ、その世界だけに生きることを選びます。そしてからその価値感を外の世界から必死に守ろうとします。

もちろん教会は、キリストの体である以上、ある意味クリスチャンにとって一番大切なコミュニティーになります。で も世の中の会社や、マフィア、またはカルトが作りだすようなシステムで成り立っているわけではありません。システムや生き方で一致しているのではなく、イ エスの福音という事実で一つになります。同じ制服を着た人々が集まるのではなく、違う文化、バクグラウンド、価値観、または元は敵であった人たちですら本 当の教会では赦し合い、受け入れ合うことができる場所です。相手を自分と同じにするのではなく、尊重し、皆罪びとであったという事実のもとにエリート意識 はなくなり、同時にイエスの「したこと」、彼の「行い(パフォーマンス)」のみで神に受け入れられているが故に、共に励まし合い、お互いを磨いていけるコ ミュニティーです。この世に住む住人(レジデンス)でありながら、国籍は天国となりこの世には属さない外国人たちです。この世で、孤立した外の世界の価値 観から自分たちを守ろうとするコミュニティーを作り、外から中に人々を入れ込むのではなく、町の中にありながら逆に光となり、外のコミュニティーに影響を 与えていけるアクティブなコミュニティーです。ビビりながら硬いシステムを作らなくてよいのは、自分のリーダーではなく、一人ひとりがイエスと福音の確信 をもっているからです。自分の牧師ではなく、イエスという一番最高な牧者の声を聴き分けられるクリスチャンになっているからです。なぜなら牧師やリーダー ですら必ず間違いを犯すからです。

クリスチャンの生き方で、ただ一つの地域教会だけが「家族」とは絶対になりません。皆神の国全体、神の子 供とされたが家族だからです。もしある教会があるクリスチャンにとってただ唯一の「家族」だと主張するなら、それはその教会だけが絶対であり唯一正しいと言っているようなものです。

ある意味このような、福音の視点のメッセージは、多くのリーダーや牧師たちには脅威になると思います。もう聖書 一部分だけを利用して罪悪感や恐れで人々を導くことはできなくなるからです。自分の思い通りに人々を動かせなくなるからです。逆に、一人ひとりがイエスを どれだけ愛しているかどうかという基準でしか、奉仕、コミット、伝道や弟子訓練ができなくなるからです。でもそれがイエスが本来求めていることではないで すか?恐れや罪悪感、または「何かもらえる」という動機からするのではなく、ただイエスのしたことに心打たれ、愛するがゆえに従うという動機だけが神の恵 みに応答した生き方だと思いませんか?

日本人クリスチャンの皆さん。ナイーブにならないでください。その教会の影響力や大きさ、またはその世界しか知らないからと言って、それがすべてだと信じないでください。世界中の多くのカルトや怪しい組織ですら、影響力と数の多さを持っていま す。間違っているという事を「間違っている」と愛をもって言える自信を福音を通して持ってください。ある特定の教会が強調する価値観に依存するのではなく、聖書の正しい福音という価値観を学んでください。教会の弟子になるのではなく、イエスの弟子になってください。教会LOVEで中心で動くのではなく、 イエスを愛することを優先し教会という存在を愛してください。教会を大切にしなくて良いと言っているのではなく、教会が大切だから故に、イエスの正しい福音の視点を通して教会と向き合ってください。なぜなら教会や牧師に対して本当の事や正しいことを言えない、または依存している、怖がっているということは、究極的に自分の心の奥底では、教会をあなたの「心地よさ」や「認めてもらう」、または「祝福されたい」という自分の利益のために利用しているにすぎないからです。それは教会を愛していることにはなりません。本当の愛は、間違いを見過ごすようなことをせず、相手に「もっと良くなって欲しい」という思いから真実を愛をもって伝えることができるからです。

イエスを愛することで、正しい優先順位を置き、同時に両親、家族、または他人や教会にも依存しないと同時に、本当に意味で彼らを憎むのではなく、本当の意味で、自分の家族、パートナー、兄弟姉妹、友達、そして教会というコミュニティーを愛していきましょう。

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