ローマ12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
喜びと悲しみ。聖書では、常に「喜びなさい」(ピリピ) ともあれば、悲しむものは幸い(ルカ6:20、マタイ)ともあります。イエスも、悲しみを知る者(イザヤ53:3)とされ、また喜びがゆえに、十字架(苦 しみと悲しみ)を通ったともあります。「どっちになればいいんだ!?」と思うかもしれませんし、この矛盾は両立できるのか?とも考えるでしょう。実は両方で す。これも福音に生きるクリスチャンの大切な絶妙なバランスです。そして福音だけでそれが可能です。世の中では、ポジティブ思考で頑張り続け成功できれば良いですが挫折もし、絶望的にネガティブで鬱や引きこもりか、最初から否定的で皮肉な人もいます。
聖 書やクリスチャンの歴史でも常に、振り子のように両極端を行ったり来たりしてきました。サドカイ人は、人の持つ自由意志と意志の力を強調し、自分たちは基 本的に「良い人間であり優れた存在なんだ」と肯定的に生きる派でした。パリサイ人は、逆に厳格で、こなせもしないルールを律法に上にさらに付け加え、神の 性質も、ただ厳格的な神とだけ捉え、自分たちだけがそれらをこなせている、神の基準を分かっていると自負して、ある意味批判的ですごく否定的でした。教会 や宗派の歴史をある程度知る方は、この両極端が歴史的にどう続いてきたか既に気づいていると思います。
最近の教会のトレンドでは、「喜 べ~」だけを強調し過ぎる傾向もよく見ます。喜んでないと、「お前は何かおかしい」とされ、その雰囲気のなかで、問題や自分の人生の葛藤を分かち合うこと すら気まずくなり、本当の自分を隠しながら教会に通い、外側では「人生すべてうまくいっている」、「仕事も結婚も絶好調~」って装いながら燃え尽きてきた クリスチャンも多くいます。その人々からの相談も結構多いです。本当に「うまくいっている」状態だとしても、悲しみと罪の現実、そして悔い改めの概念を しっかり教えられない場合は、自分が自分の力でそのように生きていると思い、高飛車になり、人生をうまくこなしてない人を見下す側になります。人々が抱え る罪や問題も真剣にとらえず、哀れみも持たず、気にかけたとしても「なんでできないんだ!ただ信仰が足りなんだ(その 信仰の理解も自分の意志の信仰という間違った概念)」という視点でただ非難します。その原因は、「悔い改めは、クリスチャンになった時だけと、大きな間違 いをした時だけするもの」という間違った神学になあると思います。要は、初めは救世主であるイエスに頼り悔い改めたけど、そのあとは「自分で頑張る~、イ エス様は良い模範でいてね」ってな感じです。最初だけイエスが救世主で、そのあとはイエスは単なる良い先生なってしまいました。だから聞くメッセージや教 えることも結局自己啓発であり、どれほど自分のセルフイメージを神の愛と受け入れの中で良くするかだけに頼ります。悔い改めのライフタイルがないので、聖 なる神の部分と神学を致命的に欠き、率直に言うと聖なる超越した神をなめています。
その逆パターンもよくあります。悔い改めだけに強調し、 「悲しみ」なさいという事だけを教えるケースもあります。どれほど人間が壊れていて、罪深く、神なしには何もできないという神学上はあっています。でも致 命的に信仰(神を信頼する)の部分が欠けているケースです。その人の場合、悔い改めて謙遜ですが、地震や大胆さがありません。悲しむ者と悲しみますがずっ とそのままです。自分も罪人だと理解しているので、やたらに理解してくれるし、やさしいけど、「ただ、うん、うん、わかるよ~。」で終わってしまいます。 もっと極端になると、 頑張って伝道したり、教会を盛り上げたり、元気になろうよと励ます人に対して、「何でそんなに浮かれてんの?」、「なんでそんなに必死?」となり、あたか も伝道師、勢いを持ち、成長や信仰を見ることが、あたかも罪であるかのような目で見られます。そしてそういう人たちを押しつぶすように、「お前たちは悔い 改めていない、もっと忍耐強く謙遜でいないさい」と良い意味で出る杭(若い世代)を打ちのめします。
喜ぶだけがクリスチャンの人生でしょう か?それとも悲しみ悔い改めるだけでしょうか?イエスにはもちろん究極的な喜びがありました。それは状況に左右されない喜びです。でも非現実的な 人ではなく、ちゃんとこの世界のボロボロな状態を目でしっかり見て、人間の問題から目をそらさずに向き合い、その辛さと痛みを知り、一緒にも泣いてくれま した。でも同時にそこから立ち上げる希望を与え、真実をはっきり愛をもって伝える自信と大胆さを持っていました。そして絶望的な状況ですら変え、遅すぎた と思われる状況では、それを覆しもっと素晴らしい奇跡を行いました。本当の福音を理解するときに、両方をちゃんと持てるようになります。何故なら、方側面 では、イエスの十字架の死と苦しみを知っているからです。罪がどれほどシリアスなことであり、神は聖なる神であるが故に、罪を決して軽く見ないことがわか ります。そのためにイエスが死ななければならなかった重さと現実を真のクリスチャンは十分理解すべきです。
でもそのとてつもない真剣な問題であり、絶望的 な罪が、イエスの命と復活で完全に解決された事実と素晴らしい「良い知らせ」も知っているので、とてつもない喜びも持っています。実は、本当の喜びは、 「罪の現実とイエスのしたことの重さ」を神速分かるからこそ持てるものであり、最大限の喜びになります。その知識と現実を知らずに喜ぶのは、単なるノリや ポジティブ思考でこの世の中の喜びと何の違いもなく軽いものです。そして神の愛ですら、「神様いつでも愛してくれる~、神は愛だ~」と軽くしてしまいま す。その愛を示し、私たちに注ぐために、どれほどの犠牲を払っているかを軽視しているんです。同時に、悲しみと悔い改めだけに浸っているなら、その人は心 底「福音(良い知らせ)を理解していないことになります。結局神の偉大さを信じておらず、神の力と栄光を見てないんです。伝道して、喜びと共に人々にこの 素晴らしい知らせを分かってほしいと思わないのなら、実は本当の福音(良い知らせ)に感動して信じていないんです。要は、福音的な本当の喜びを持つものは 本当の悔い改めをしている人であり、福音的な本当の悲しみを知る人は、神の本当の慰めと励ましを受け取っている人です。
福音は、悲しむ者には希望の光であり、高飛車で自分勝手なプライドで喜んでいる者には脅威だからです。
こ れは旧約聖書でも神の人々への接し方に表れています。王族の家庭で育ち、毎週神殿(教会)に通い、神の存在に慣れていた預言者イザヤには、神様は「聖な る、聖なる、聖なる神」として現れました。その時の、イザヤの反応は、「「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚 れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから(イザヤ6:5)」。要は、浮かれていたイザヤに神は自分の神聖さを 強調したということです。
でも逆に、預言者 エレミヤには全く違う対応です。エレミヤは、その当時一番ランクの低かったとされた羊飼いの仕事している、自分に自信がなく、「私は若すぎます」と言う自 分のセ ルフイメージも低かった人でした。そのエレミヤに対し神は、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさき に、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした(エレミヤ1:5)」と言いました。また「彼らはあなたと戦うが、あなたに勝つことはできない。わ たしがあなたと共にいて、あなたを救うからである(エレミヤ1:19)」と励ましました。
イエスの人生や人々への接し方を見ると本当にまったく同じです。自信過剰なものには厳しく、そして病と社会に打ちのめされている人々には愛と哀れみをもって接しました。
そして私たちも本当に福音の中でイエスの悲しみと喜びの両方を知った時、同じように人々のニーズに答え、プライドや見下し、または自信のなさや皮肉ではなく、愛と真実、真実と正しさを持って人々を励まし、導いていけると確信します。
本当の悲しみと喜びの両方を知る人になってください。
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