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完全な癒しと解放へ向けて


マタイ5:3-6 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。 柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。

この聖書箇所は、多くの人に知られ、イエスの一番初めの教えとしても有名な箇所です。同時 に、イエスがここで本当に言わんとしていることを理解するには少し難しい箇所でもあると思います。イエスがここで話している群衆は、既にイエスについてい くと覚悟した弟子たちであり、そしてイエスについて来た群衆でした。要は、マタイの福音書で強調されている「神の国」にすでに入った人々はどのような生き 方をして、またどのような存在かといった、本当のクリスチャンの性質とキャラクターを説明しているのが、この1-10節の8つ(貧しい者、悲しむ者、謙遜 な者、義に飢え乾く者、哀れみ深い者、心が清い者、平和を作る者、そして迫害されても喜ぶ者)のリストです。

多くの場合、これらは、8タイプの違った人た ちだと考えられてしまいがちですが、この8つの性質は一人のクリスチャンがすべて持つべき性質です。しかも最初の三つは、貧しい者、悲しむ者、謙遜な者 (柔和はあまり正確な訳ではないため)といったいきなりネガティブかと思われるリストです。今回はそれらがどういうことなのか見ていきたいと思います。簡 単に言ってしまえば、本当に神の国に入っている人(生まれ変わっている:ヨハネ3:3-5)の基準です。

まず最初に、「貧しい」とはどういう意味でしょうか?

ここでは心が貧しいと言っていますが、ルカ書ではただ物質的にも「貧しい」とも言っています。簡単に言うと、貧しいとは「自分には自分 を満たす何の資源(リソースや能力)も持ち合わせていない」という事です。要は、クリスチャンとしての最初の自覚は、「自分には自分を変えることもでき ず、救う力も、幸せにする技量も資源も何もないという事」を認識し知っている者のことだとイエスは言います。このようなことを聞いたとき、現代の人たちは 凄く否定的でネガティブなメッセージだと思います。それは、僕たちが普段世の中から聞いていることは真逆だからです。

最近のトレンドは、ま さしく自己啓発という真逆です。書店に行けば、ある程度成功した人々の知恵や成功の法則が書かれた本が棚に並んでいます。この間本屋に行ったら、AKBの リーダー(高橋みなみさん)が書いた、「リーダー論」まで出版されていました。もちろんその原則は必ずしも悪いものではありません。でもどのようなメッ セージでしょうか?それは「彼らのような、人生のエキスパートの知恵と知識を得れば、あなたも自分と人生を変えられる」と言っているようなものです。要は 「自分は自分で変えられる、あなたに必要なのはほんの少しの方法論と知恵です」と言っています。

そしてこのアプローチは今日人気あるキリス ト教会の中にも入ってきてしまっています。もちろん彼らはイエスの存在やキリスト教の基本は知っていて信じているかもしれません。でも聖書やイエスの教え を読んだり、メッセージを聞くとき、聖書や神の言葉の「原則」だけを捉えようとします。それさえ知れば、イエスのように生き、ダビデや聖書の登場人物の一 部分のように、自分を変え、成功できるかのように考えます。そうなると、聖書のポジティブと思われる箇所だけハイライトします。神の約束、愛、可能性、 「なんでもできる」といった側面だけを強調します。もう片方の側面である、そのダビデや聖書の人物たちの闇や葛藤をしっかり見ていません。あたかも彼らが ヒーローだったかのように捉えます。

でもこの山上の教えも含め、イエスもバプテズマのヨハネも一番最初に強調したことは、「神の国が来た、 悔い改めて・信じなさい」です。悔い改めが最初のステップです。そして偽のポジティブ思考に慣れている私たちには、「自分の弱さや非力さを認める」という ことがとてつもなくネガティブに感じます。でもそれで認めずに、悔い改めのプロセスを飛び越すことは、現実に向き合っていないことになります。

こう考えてみてください。病気ですごく体調が悪くかったら医者に生き、診断してもらい、自分の体の何がおかしいか把握し認めなくてはなりません。その医者の 判断と診断に対し、「先生。あなたはネガティブです」というでしょうか?ネガティブどころか、癒しと病気からの解放の第一ステップでしょう。その症状を無 視し続ければもっと悪化します。リポビタンD(ポジティブ態度と中途半場な喜び)で一時的にエネルギーを貰っても、根の病原を解決しなければ、本当には変 わりません。

「貧しい者となる」ということは、そのまず自覚です。「すべての人は罪を犯し、神の基準からずれてしまっている(ローマ 3:23)」という現実、義人は誰一人もいないという現実を認め、「あなたには私なしでは何もできない」というイエスの言葉を自覚することがクリスチャン となる第一ステップです。

そして「悲しむ者」とはその先を行きます。貧しい者はある意味、自分の現実と罪という病気の症状の認識です。自分 が神なしには壊れている自覚です。更に悲しむ者とは、その原因を罪だと理解し、そして「その罪がどのように実際に自分と神を切り離しているかを理解するこ と」です。何が実際におかしいのかを把握することです。そして自分の精神的、心理的、社会的すべての問題は根本的に霊的な問題であり、罪という根の問題か ら来ていることを理解することです。それは簡単に言うと、自分の心の闇と偶像の認識です。本来神からもらうべき、愛や認められたいという思い、心地よさや 幸せ、安心と人生の安定、そして成功や他人より勝ることを、神以外のどこで得ようしているかの認識です。以前にも偶像の話はしたので、ここでは説明しませ んが、過去のブログを見てみてください。

ハッキリ言えることは、私たちにとってこの最初の2つのステップは一番嫌なものです。自分を本当に さらけ出さなくてはならないからです。心底認めなくてはならないからです。ある牧師先生がこのように言いました、「多くの場合、私たちはただ口で言われて も理解できない。その現実を見せられるまでは悟らない」と。私たちの教会でも毎週のように、悔い改めと信仰の両側面を伝えてます。偶像のメカニズムも教え ています。そして多くの人々は、頭では分かっていますが、自分の心の闇と罪の現実を困難な状況で見せられたとき、ほとんどの場合、自分の現実を認めずに、 他人や状況のせいにします。「外側の問題(社会が人が教会)が、自分をそうさせたのだ、だから私はこうなんだ」と言い張ります。自分に中の「罪という病 気)を見れないんです。イエスは、「あなたの心の中のものがあなたを汚す」とハッキリと言ったにも関わらず、その現実を中々認めません。

実は、それが一番危険な状態なんです。医者に症状と原因を教えてもらい、薬を提供してもらっても、それを拒否するような行為だからです。自分を欺いているからです。だからクリスチャンには多くの場合、2つの極端があります。

1 つ目は罪という現実を突きつけられて、落ち込み、中途半端な悔い改め(それは本当の悔い改めではないですが)で、悲観モードのままです。「私は罪人です」 と言い、それ以上先の癒しや開放に向かわないのです。「神は私を赦しているかもしれないが、私は自分が赦せない」という人もいます。それはある種のプライ ドです。要は自分は悪すぎるから、神に私を変える力がないので、ほうっておいてください。あなたに頼らずに自分で何とかします」と言っているようなものです。要は、神に対しての罪の認識ではなく、「自分が本当はこんなはずじゃないんだ。本来はもっと良い人間なのに」という間違った自分の現実の認識から来る 「自己憐憫」です。これをパウロは、「世の中的な悲しみ(2コリント7:10)」と言います。それは死を持たラストまで言います。でも本当の悔い改めは、 神に対する悲しみ(自分の罪が神様との関係を切り、神を悲しませた)から引き起こし、希望と救いをもたらすと言っています。間違った悔い改めは自分中心 で、本当の悔い改めは福音中心(神様中心)です。

またこれらの最初のステップを完全に無視する、クリスチャンの生き方も流行っています。強調されるのは、信仰、可能性、将来、神の愛と約束だけです。それだけの偏った側面で人生が流れている為、問題を抱えている人や、自分の葛藤を分かち合おう とする人に対して、「何でお前はそんなネガティブなんだ?」、「なぜ俺のように喜びを持てないんだと?」と罪と世の中の問題に対してすごく表面的であり、 見下したアプローチしかできません。この状態もかなり危険です。偽の喜びで、表面だけバンドエイドを張り、実は自分の心の奥でどんどん罪と悪が成長してい ることに気づいていないからです。

要は両極端とも、現実を見れていないのが問題です。

では何が解決なんでしょうか?

それは、「謙遜(meekness)」です。 貧しくなり、しっかり自分の問題の症状と現実を認識し、本当の悲しみを通して、自分の罪というウィルスと病気が神と自分を切り離している原因を知り、その上で自分で解決したり、無視したり、周りのせいにするのではなく、「謙遜」になり神に頼ることです。

「謙 遜Meekness」と聞くと「弱さ」のように多くの人たちが思っています。でもギリシャ語の言葉の語源は、「飼いならす(Taming)」」という意味 であり、「ワイルドな野生の動物をコントロールする」という概念です。昔の人々は、王様という絶対的な権力と影響力を持った人でも、自分を謙遜な者とする のに何の弱さを感じていませんでした。なぜなら自分自身のコントロールできない部分を、「飼いならす」という意味をしっかり理解していたからです。私たち にとって「謙遜」になるという事は、自分の力では、罪を飼いならせないことを自覚し、神の救いと力(福音)を信じ頼り、そして聖霊によって自分に自制心を もたらすことです。そこに本当の解放と癒しがあると信じることです。自己啓発ではありません。そして本当の喜びに繋がります。

考えてみてく ださい。この個所では、「~するものは幸いです」という祝福があります。でも、その祝福を受けたとき、「自分はその祝福を受けるべき存在」だと思い込み、 本来罪人だという事を無視し、ただ神に愛される存在だから「当たり前」だという態度で、祝福や良い事が人生に起こったらどうでしょうか?もちろん少し嬉し くはあり神にある程度感謝するかもしれません。でも心では、「受け取るのは当たり前」と思っています。でもそんな軽いものはイエスがくれる本当の喜びでは ありません。でも、本当の「謙遜」により、本来「自分がその祝福に値しない」としっかり自覚していたらどうでしょう?神の怒りが本来自分の上に落ちるべき だと分かっていて、それでも赦され、恵みで祝福を受けたら?その時の喜びは、とてつもなく倍増します。もう感謝しきれないほど喜び、心打たれます。同時 に、そんな神様に心から従い仕えたいという動機がやってきます。「当たり前」と思っているということは、「自分の良い存在と行いによって神に貸しを作って いる」と思っているようなものです。だから神は自分を祝福するべきだという勘違いです。

また「当たり前」と思っている人に、悪いことが起 こったらどうでしょう?その人は神に怒りを覚えます。「なぜ自分はこんな困難を受けなければならい」と不満の持ちます。それに驚き、混乱します。でも、 「本来値しない」と自覚していて謙遜な人に、悪いことが起こったらどうでしょう?その人は、驚きも動揺もしません。本来受け取るべきものを受け取っている ので、神のしようとしている計画に身を任せ、困難も成長のきっかけとだという態度を持ちます。、もう「自分の最悪」をも赦されていることを自覚しているの で、その困難すらも益に変えてくれるという絶対なる自信と、神の愛のデカさを信じています。

本当のクリスチャンとしての変化と解放、そして 成長は、悔い改めと信仰の繰り返しです。ある人は、キリスト今日に入ってからこのことを理解せずに、ずっと貧しく悲しいままでいて、その先へ進み成長でき ない力と信仰のない宗教を生きているかもしれません。ある人は、通るべき過程を飛び越えて、現実を受け入られずに不完全な喜びで、あたかも自分が成長して いるように自分を欺き、自己啓発という宗教をやっているかもしれません。

イエスの死と復活という福音の真実のすべてを受け取ってください。 最初から最後までのイエスという最高の医者の手術治療を受けてください。イエスは、そのためにメスを使い一旦は私たち心の部分を「切り開く」必用がありま す。でもそのカットは癒しの痛みであり、通らなければならい過程です。福音は、多くの人々には「つまずき」であり、「弱さ」で「愚かさ」です。そしてネガ ティブに感じ痛いです。でも実はそれは、本当の喜びと、解放と、本当のポジティブさに繋がる、神の力であり強さだと知ってください。そして信じてくださ い。

また機会があれば、そのあとのリストも書いていきたいと思います。

福音に戻ろう。


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