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個性と一致(自分の賜物・霊的能力・スキルの見つけ方)


1コリント12、エペソ4:1-14、ローマ12

前回のブログの延長線になります。

真の個性(自分)に与えられているスキル能力は、本当に一致しているコミュニティーで発見でき、真の一致があるコミュニティーは本当に個性が生かされています。

上の聖書個所で、パウロはクリスチャンはまず、皆ひとつで同じだと言います。同じ神である主イエスを信じ、(罪人であったのに)救われ、洗礼を受け、同じ聖 霊を受け、キリストの体に繋がれています。でも同時に、体という一致であり同調の中で、器官があり、それぞれ違いがあり、個性があると。その状態で初め て、個々の霊的賜物、そして能力とタレントがちゃんと生かされます。同時にコミュニティーが育ち、成熟し、頭であるキリストが思って考えただけで、体に伝 わる神経を通し、体がすぐ動き、神の働き(動き)を自然にできるようになります。それが理想であり、一致と個性が完全にキリストにあって機能している成熟 と完全さ(FULLNESS)です。

でもこの一致と個性のバランスが崩れたり、勘違いして生きていると、すべてがずれ始めます。例えば、個 性や個人主張が強すぎるクリスチャンは、自分の能力やスキル、神様からのギフトは熱心に求め、使い、表現し主張しますが、プライドが高く、教会が自分を用 いてくれないとふて腐れます。聖書学校を出たから、いきなり日曜日に説教させろ、ギターを担いできて、いきなりワーシップリードさせろとなります。または 教会は必要ないといい、クリスチャンは自分個人で生きていけるものだととてつもない勘違いを持ちます。最悪の場合、自分の華やかさ、祝福、成功のために、キリスト教を利用します。

または一致や同調性だけに偏ると、自分を極端に消極的にし、奉仕も牧師やリーダーにお願いされるまで動きません。 または他の奉仕者に任せっきりで、ただその場の雰囲気と「流れ」に任せる、消費者となります。衝突を避け、一致を守るために、自分の意見をはっきり言おう とはしません。恐れにより、真実よりも、成長と変化よりも、一致と平和の奴隷です。またこの極端なズレは、軍隊のように同じユニフォームを着て、同じ口調 と話し方をし、皆同じように振舞い、同じようなことを発言をし、行動も考えもコントロールされ、つまらない孤立したものになります。カルトなどはまさしく その例です。

じゃどうすれば、パウロが言うように、一致を保ちつつ個性を生かせていけるよう、霊的能力スキルを発見し、生かせるのでしょうか?または福音というバランスのある教会を促進させることができるのでしょうか?

態度などのことは、福音が完全なバランスであり土台ということであり、前回書いたので、今回は短く実践的なことだけを書きます。

これはCTCのトレーニングでも学んだことですが、基本的に3つの分野を見てみてください。

リーダーシップとコミュニティーによる確認と認識と同意(AFFIRMITY)

自然に結果を出している自分の能力(ABILITY)

そしてチャンスと機会(OPPORTUNITY)

ま ず最初の確認と認識ですが、これは聖書では、按手や長老に選ばれて任命される概念にも当たります。ある人は、自分は「歌がうまい」と思っていながら勘違い しているだけの人もいます。実際に他の人に歌を聞かせたら彼らは全くそうは思っていないかもしれません。だからこそ、自分の自己的判断ではなく周りの人た ちが必要なんです。私たちは自分の実際の声がどのように聞こえているのかも録音したものを聞いてみないとわかりません。本当には自分を知らないんです。教 会でリーダーたちに認識してもらってください。なのでまずコミュニティーの中で、何でも小さな奉仕から初めてみてください。そこで自分が好きなことも嫌い なことも、長所も短所も分かります。また他の周りもそれらに気づき、福音に根差している教会なら正直に言ってくれるはずです。積極的に奉仕してください。 「熱心に霊的賜物を求めないさい(1コリント14:1)」とも言っているからです。同時に周りに認識してもらってください。もしかしたら伝道が嫌いだった けど、やってみたら、案外楽しく実は得意で好きだったということも多くあります。

次は、実際にスキルがあるかだけではなく、それらを実行し ていて、自然に「結果」が出ているかどうかです。伝道が好きで、何度もやったけど、全然人が救われない場合もあります。歌は好きだけど、実際にうまくはな いのと同じです。本当の賜物は、結果がしっかり出ます。最初はそれらが好きでなくともです。情熱は後からついてくる場合もあります。私たちは、自分を知っていると勘違いしがちです。実はまだまだ発見途中なんです。私自身が会開拓するなど、その状況にぶち当たって、神様に押し出されるまでは本当に考えたこと もなかったことです。でも神様は、神様がしたいように神様の思いに任せて、物事を動かしていくものです。

三番目に、機会やチャンスがあるか どうかです。スキルや能力を持ち、結果もある程度出して来た実績もあり、また周りもそれを認識し、情熱もあるかもしれません。でもそのプロジェクトや実行 するにために、まだチームが結成できない、人材がいない場合もあるでしょう。または教会がそこまでのことをしていくサイズやリソースを持ち合わせていない かもしれません。その場合は、正しいタイミングでないということかもしれません。だからと言って教会やリーダーシップが認めてくれない愛してくれないと勘 違いして、その環境を離れるのも間違いです。もしかしたら、あなたがリーダーとして切り開いていくのかもしれませんし、または逆もあります。チームの一員 とならなければならないかもしれません。正しいタイミングの場合は、神様がそれらを準備し、牧師やリーダーたちもお願いしてくるかもしれません。

最後に理解してほしいことは、すべてのクリスチャンには、賜物(GIFT)が与えられていると同時に、責任(DUTY)も 与えられています。それは、すべてのクリスチャンが、伝道し、信仰を持ち、祈り、励まし、預言し、癒しを願い、仕えあい、他人をケアし、憐れみを与え、寛 大になり、愛する責任を持っています。私の賜物は、信仰によって祈る賜物なので、伝道をしませんとは言えないのです。もちろん伝道に特化した伝道の賜物を 他の人以上に与えられている人はいます。要は教会で何もしていないということは霊的にに責任を果たしていないことになります。すべての信者にクリスチャン としての責任を果たさなければならないことは決して忘れないでください。皆同じように伝道しないかもしれませんが、皆が協力し合って伝道の働きに関わって 伝道すべきです。皆が3時間祈らないかもしれませんが、皆一緒に教会として祈るべきです。皆が賛美のリードをしないかもしれませんが、皆が礼拝で歌い神を 賛美するべきです。それは皆が一つのキリストの体だからだからです。

霊的・賜物や能力の概念はすごく興味深く、そしてパワフルなものである と同時に、一番間違って解釈されやすく、乱用されてしまうものです。それを避けるために、これを覚えておいてください。賜物は、結果的に私たちが神様に 従ったときに起こる「行動」です。「実」ではありません。聖霊の実は、私たちの「品性」を作っているものです。決して私たちの能力・スキルが品性と勘違い されて見られてしまってはいけないということです。神様に用いられて活躍しているから、必ずしも聖霊の実を持っているとは限りません。賜物を個人的に機能 させながら、神様からドンドン離れていくこともできてしまうということです。本当の意味で、神様が求める形で一人ひとりの賜物が用いられているなら、必ず その人自身の品性も高められ、そしてコミュニティーの自体の品性も成長していくはずです。なぜならパウロが言うように、霊的賜物の最終ゴールは、「愛」と いう形で教会が成長していくことでだからです。

まだまだ伝えたい要素はありますが、また別の機会に。

福音によって、個性を発見すると共に、正しくコミュニティーのために、そしてこの町が変わるためにドンドン神様と人々のために活躍していってほしいと思います。


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