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あなたを不幸にする幸せ

ある日、クリスチャンの十代の女の子が、牧師さんと話していました。

その女の子は、自分に自信がないことや異性からモテないことに悩んでいました。その結果人生で間違った決断をしたりしていたので、牧師さんに相談していたん です。牧師さんは、クリスチャンであるその女の子に、イエスが十字架で罪の為に死ぬほど彼女を愛していて、そして死からも復活していることにより将来の希 望をももらっていることを話し、その事実により自信を持てることや自分の価値観を持つことを勧めました。そうするとその女の子はこう言いました、「先生。 そんなことは分かっています。でも男性からモテないなら私の人生に何の意味があるの!」と答えました。

この話を聞くと、一見ティーンの女の子らしい発言だなと思い笑えますが、この女の子が感じていることは実は大人のクリスチャンやそうでない人にも同じことです。

私たち人間は常に、「自分の幸せの定義」を持っています。簡単に言うと、自分の人生の価値観であり意義そのものです。人生で「これさえあれば」というものを 追いかけながら生きています。どんなにビジョンや目的や情熱がないと思われる人でも実はその定義を持っています。「????=私の人生の幸せ」です。

あの大学に入れれば、幸せをつかめる。

あの人が、私の人生にいてくれれば、私は幸せに生きるれる。

結婚できれば、私は幸せ。

子供が生まれ、家族を持てることが私の幸せ。

世の中のためになることをしているのが私の幸せ。

人のために尽くしていることが私の生き甲斐。

聖書の教えること、教会を成長させること、神様の役に立つことが、私の生き甲斐、幸せ、目的、存在意義・・・。

これらは決して悪いことではないです。でももしこれらがあなたの人生でなければ幸せではないと思っているなら、あなたはそれらの奴隷なんです。

要はそれらのことがあなたの神です。

そしてクリスチャンも福音を理解せずに生きていると、

「イエス+????=私の幸せ」という方程式を作り出して生きてしまいます。

この十代の女の子は、イエス+モテること=私の幸せという感じです。

そして実は皆このような方程式で生きてしまう危険と誘惑があります。

例えばこのような場合はどうでしょう?

大学が受からなかったらどうしよう?仕事で成功できなかったらどうしよう? 結婚できなかったらどうしよう? 子供が生むことができなかったら? 牧師になれなかったら?教会を成長させることができなかったら?十分なお金を持って日々の生活を安心して生きられなかったら?

イエス+仕事の成功、結婚、子供・家庭、達成と成果、安心・安全=幸せ?

ということでしょう。

私たちは必死にその何か自分を幸せにし満足させる要素を追いかけながら生きています。そしてそれを手に入れようと必死で、動機ややる気、生きる意欲を得ています。それを得ているという感じがしない時や日があるとイライラし起こり不機嫌、そして周りに八つ当たり、それらを批判されたり奪われたりすると激怒し、 相手を攻撃します。そしてそれを手に入れられる希望がなくると、他の新しいものを探すか、または絶望に陥り、落ち込み、鬱にもなり、最悪のケース人生を諦 めるでしょう。

ここで言いたいのは、もしクリスチャンでありながら「イエス+????」が必要だと心の奥底で思っている限り、結局はイエス を信じていないことになるということです。なぜならイエスはあなたの人生の「部分的な答えや幸せ」ではないからです。むしろすべての答えであり、あなたの 人生の意味、価値、目的、すべてです(ヨハネ14:6)。

あなたの進む道をただ教えてくれる存在じゃなく、行くべき道そのものです。あなた にこの世の真実と真理を教えてくれる良い先生・アドバイザーでなく、真理そのものです。人生の幸せの見つけ方と方法を与えてくれる存在だけでなく、人生そ のものです。あなたに成功と富を与えてくれる存在ではなく、成功と富そのものです。要はイエス+????となっているということは、福音を信じていないと いうことです。

マザー・テレサはかつて、「イエスは私のすべて(Jesus is my everything)」と言いました。この真実を分かっていた彼女は、日本人を見たとき、「霊的な貧困にある」と言いました。要は、その幸せにしてくれ る????を必死になって飢え乾いて生きていることを目のあたりにし、気づいたからこそのように言いました。そして彼女はこの福音を心底分かっていたため に、「本当の意味」で素晴らしい社会福祉と正しいことを達成しました。

私たちは、究極的に幸せを得たいと思って生きています。それは悪いこ とでもないですし、それらは良いことかもしれません。でもそれらを得ることが人生最大の目的となった途端に、人生が狂い始めます。「自分が幸せならそれで いい」という自己中心さに走ります。他人への奉仕とやさしさですら、自分が良い人間(幸せ)だと思えるための道具となります。「認められたい・良い人間だ と思われたい、自由でありたい、安心・完全でいたい、人生は自分の思う通りでありたい、他人より勝りたい」という心の根にあるからです。

イエスの福音の良い知らせは、この心の根の問題解決にあります。その良い知らせとは、イエスが十字架で私たちの罪を赦し、義(神様の前での正しさ)を与えて くれていることにより、もう既に「認められている、正しく思われている、人生の最終目的地は安心で安全、神様に守られている、そして既に人生で死にすら 勝っている」ということです。要は、世の中の人たちと同じ原動力で、同じ必死さで、同じ土俵で、同じ比べ合いと競争の中で、同じ基準と価値観で生きなくて よいということです。

あなたが今日イライラし、怒りっぽく、不満足で、人を赦せず、人を突き放し、妬み、嫉妬し、不安で、人を裁き、批判に反応し、そして周りの人を愛せないのは、福音を忘れているからです。

また自分の使命に混乱し、人間関係の問題を避け、コミュニティーから逃げようとしたり、周りの目を気にしたり、教会に通うことや神と周りに人々に仕えることを諦めて嫌になってしまうのは、結局はすべてイエスが必要なものを与えてくれていると信じていないからです。自分が欲しいもの(幸せ)を教会や信仰の歩み からは手に入れられないと思い、他の場所で探そうとしているからです。なぜなら教会やクリスチャンのコミュニティーは、それらを得る場所ではなく、イエスがそれらを福音により既に与えてくれているということを伝え、お互いに再確認する場所だからです。

私自身も教会の成長が不安になり、他の成功している牧師やリーダーたち、他人の成功を羨ましがる誘惑も、結局は福音の事実を忘れているからそうなります。

あなたの人生で「イエス=幸せ」 としてください。

そうなった途端に、すべての人生で起きること(祝福も葛藤も)が私たちを更に成長させる要素となります。そして絶対に使命から外れたり、人間関係から逃げるような態度ではなくなります。

このような人生は絶対に揺るぎません。そして躓いても必ず正しい方向に人生は向っていきます。

最後にパウロが言ったことで終わりたいと思います。 「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:11-12)」

その秘訣は、イエスであり、福音そのものです。

福音に戻ろう。

ではまた。


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