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人間の成長と変化 part 1


数週間前の教会のメッセージの一部です。

当り前のことですが、この世の中にあるものは常に変化し変わっていきます。 良くなり成長するという変化もあれば、悪化し劣化していく変化もあります。 私たち人間も同じで、成長するかまたは劣化していくか人生ではどちらかしかありません。 変化が遅く見えても同じ状態でいることはできません。嫌でも、子供は成長し大人になり、そそして老いていきます。

聖書では、私たち人間の成長を「植物」や「農業」のプロセスに例えています。 特にマタイの福音書13章では、人間が神様にあってどうやって霊的に成長していくかがはっきりイエスによって説明されています。今日はしっかり健康的に成長していく大切な要素をいくつか見ていきます。

まず最初に、成長は絶対に必要不可欠(inevitable)だということです。植物はちゃんと土の中に埋まり、正しい環境と必要なものがあれば (太陽と水、良い土)、自然に成長するということです。成長していないのなら、死んでいるかまたは劣化(枯れて)言っているということです。

でもこの要素見ていく前に、もっと大切なことがあります。

それは「何を成長させる」かです。何の種を自分の人生に植えているかです。

クリスチャンの人生で、それは神の言葉、または「良い知らせ」という福音が種でなくてはならないと言っています。例え話の中にもありますが、厄介な ことに「悪い種」や「間違った」種を撒こうとする敵も存在すると言っています。イエスは「パリサイ人の教え(種)に気を付けろ」とも言いました。というこ とは、まず何よりも私たちは「正しい種」である福音をしっかり自分の心に植えているかが、とてつもなく重要になります。なぜならそれが間違った種ならせっ かく成長させても、間違った実が出てきてしまうからです。

リンゴの種を植えて、リンゴという実が成るのを期待していたのに、ミカンが成ってしまったといことも人生では起きてしまうということです。しかも怖 いことに、実が成るまではそれが何かほとんど分からないことです。要は判断には時間がかかるということになります。種はみんな小さく、土の中にある間は何 が成長しているのかわかりません。芽が出てもさほど見た目には違いはないので最初は気が付きません。クリスチャンの人生や教会自体もある意味同じです。似 たような2人の人が似たような環境で、似たような態度で、似たような信仰を持っているように見えても、結果的に片方はかなりズレた宗教的な人間になり、別 の方は正しい信仰と神様との歩みを成長させるという結果にもなりうると言うことです。

イエスはそれを別の形でこう言いました: 同じ2つの家があり、一つは岩の上に建てられもう一つは砂の上に建てられた。 2つのドアがあり一つは小さく正しい場所に行き、一つは大きく地獄へ続く。 2人の預言者がいて、片方は偽物、片方は本物。 2人の祈る者がいて、一人は宗教的に、もう一人は真の神に正しく祈る。 2人が「主よ、主よ」とイエスを呼ぶが、一人はイエスはその人を知らないと言い、もう一人はイエスは知っていると言う。

何をイエスがここで言おうとしているかわかると思いますが、結局自分が「何の種」を育てるかがどんなことよりも究極的に重要だということです。別の 言い方をすると、福音をしっかり把握し、理解しているかが成長のカギとなります。なのでイエスはこう言って例え話の説明を始めました、「耳ある者はちゃん と聞き、そして理解しろ」と。また例え話の中でも「理解する」という言葉がカギとなっています。

ここでは、理解しない(または把握しない)=心(土)に入っていない状態を表しています。結果的に、種が道端に落ちたままなので、「鳥(悪魔)に種 を持っていかれた」となってしまったり、「日が照って、焼かれてしまった」という結果もあります。興味深いのは、「太陽の光」は本来は成長するための良い 要素でもあるのに、逆に成長の妨げの要素になってしまっていることです。福音を理解しているかどうかで、本来私たちのためには良いものが、悪影響になると いうことでもあります。それは聖書を読むという行動自体も同じです。以前のブログでも説明したように、福音を中心に読まなければ、結果的に自己啓発的に読 んでしまい、自分の努力で自分を救おうとする宗教的な読み方になります。先ほどの例えと同じように、「祈る」という素晴らしい行動も結果的に宗教的になり ます。教会という存在も、福音の理解が間違っていたり、ズレていたりすることで、宗教的になり、下手をすればカルト的になったり、コントロールし冷たい愛 がない組織になってしまいます。でも怖いのは見た目は最初は同じということです。

また種が浅く、根が張り切らないために、心配事や世の中の富(世の中の価値観)によって成長が妨げられる結果もイエスは話しています。これは福音が ある程度知識的に理解していても、しっかり自分の心に根付いていないので、他の優先順位や価値観によってズレていってしまうことです。これもクリスチャン では良くあると思います。福音を土台に成長させることよりも、人生で成功すること、ビジョンを持つこと、祝福されること、立場的に偉くなること、人気者に あって活躍することの方がクリスチャンの人生でも大切になってしまう場合があります。それらは本来悪いものではなく良いものですが、それらが本当の福音と 真の神様の代わりになってしまっている状態です。

「イエスを信じれば成功する」、「教会に根付けば祝福される」、「聖書をしっかり読んで祈ればすべてうまくいく」、これらは聞こえはよいですし、悪 いことではなく、むしろ良いことですが、福音(私たちの罪の為に死に復活したというにイエスが成し遂げたこと)とはかけ離れています。それらを福音という 土台には絶対になりません。それらが福音であるなら偽物になります。イエスはそれらの約束はしませんでした。どんなことがあっても常に一緒にいてくれるこ とは約束してくれました。でも必ず金銭的に祝福され、またビジネスで成功して、必ず良い結婚できるとは約束はなく、むしろ逆に困難と苦しみは必ずあるとさ え言いました。使徒行伝では、信仰の為に拷問にかけられ、投獄され、結婚もせずに殺された人も多くいました。世の中的に見れば、彼らは決して「成功」はし ていません。でも殺される寸前でも喜びあふれて、とてつもない神様の使命を全うしました。もし成功や祝福が信仰をスタートする種であったのなら、それらを 得られなかったときどうなるでしょうか?結局人生で失望します。下手をすれば自分を責め、良いクリスチャンでなかったと罪悪感を覚え、または他人や神様の せいにするでしょう。できたとしても謙遜は全くない人間になると思います。もしそれらの間違った福音を種として、自分を成長させているのなら何年後かには 宗教的になるでしょう。

本当の福音は「イエスがしたこと」によって変わり、常に感動し心動かされ感謝しながら成長し続けるライフスタイルを生み出すものです。自分がどれほど「ウマく・頑張って」、聖書の原則に従い成功できるかという自分の努力ではないのです。

そのように間違った種を育てている自分にもある日気が付きました。そしてそれがあたかも聖書のメッセージであり、人々に伝えるべき福音だと勘違いし ていました。もちろんそのように「幸せになれるよ」、「成功できるよ」、「結婚できるよ」というのは人々に受け入れてもらい易いかもしれません。クリス チャンのことを知る最初のきっかけとしては、それらの自分のニーズや癒しからでも良いかもしれません。でも本来の福音の本質を教えて、理解させていないな ら、本当にクリスチャンかどうかも怪しくなってしまいます。本当に神様を心から信じて福音の真実に頼っているのかも分かりません。たぶん福音を成長させる どころか、とてつもなく世の中的なものを成長させていることになります。

前にも言ったように、福音はGOOD ADVICE(良いアドバイス)ではなくGOOD NEWS(既にイエスが成し遂げたこと)です。アドバイスは、それを受け取りこれからする自分たちの努力でどうするかに掛かってします。アドバイスなら釈 迦でも、モハメドでも、自己啓発でも、会社でも、どんな宗教のリーダーたちでも沢山教えてくれるでしょう。でも福音(既に救 いを成し遂げてくれた)はイエスだけです。イエスだけが私たち人間がこなせなかった神の求める義を完璧に全うし、罪によって私たちが死ななければならな かった「死」を体験し打ち破ってくれました。自分たちがこれからすることではなく、既にイエスによって完成されたことの上にすべてが掛かっているというこ とです。

皆さんはクリスチャンとして、何を自分の土(心・人生)に成長させていますか?福音ですか?イエスですか?それとも宗教ですか?

イエスがブドウの木で、そしてその木が成長すれば私たちが枝になります(ヨハネ15)。 そしてイエスが求める実を、福音の種から木を成長させることにより実らせることができます。そしてイエスが言ったように、福音によってイエスという木に繋がっていないのなら、私たちは何もできません。

次回は、イエスが求める「実(結果)」は何か?そしてどのようなものかを見ていきたいと思います。

福音という種を成長させよう!

ではまた。


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