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人間の成長と変化 part 2

引き続き、前回からのトピックです。

今回は、私たちが成長し、どのような「実(Fruit)」を出すように求められているのかを見ていきます。

聖書では、その実を聖霊の実という形で、ガラテア 5:22‐23でパウロが明確に示してくれています。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」

ここで気を付けてほしいことは、ただこの9つのクオリティーを育てればよいということではないことです。

日本語では、分かりにくいですがここでの 「実」の言葉は、複数形ではなく、単体での言葉が使われています。英語でいうと「Fruits」ではなく「Fruit」です。要は、9つの違った種類の実 があるのではなく、9つの要素が一つの実に全部一気に含まれているという意味です。

なので、実を成長させるうえで、「1つ~3つの要素だけ成長していて、あとの残りはちょっと成長してないんだよね~」、なんてことはできないということです。愛だけ成長させておいて、自制心が無いという状態は、神様の求めている実ではないということです。

別の言い方をすると、すべての9つの要素が繋ぎ合っていて連携して生み出してこそ、それぞれの本当の品性が現れるということです。これが聖書的な成 長と世の中の根本的な違いになります。もちろん世の中や宗教の方法でも、これらの一つ一つの要素を持つことは可能です。でも生み出し方が違います。

例えば、世の中の「自制心(Self-Control)」はこうなります。

日本では、よく男の子に、「女々しく泣くな」とか「男は泣かな い」となどと昔は言われていました。「泣かない、メソメソしない」という自制をするために、どのような動機を使っているでしょうか?それは、「女々しくな らない」、「女みたいになるな」や「俺は女とはちがう」というプライドという動機や、他人を見下す思いから自制を作ろうとしていることになります。

世の中は自制を得るために、同じような原理を使います。規則正しい訓練された生活を送るためにの原動力として様々な隠れた理由があります。ビジネス で成功するためにそのようなコントロールが必要な場合は、「俺は他より仕事で勝らなくては」や「あいつに勝って昇進したい」が心の中では基本的にあるかも しれません。持てるため自制する場合は、「あの子より可愛くになるため」、「私はあの子みたいじゃない」と思い努力します。 そして宗教的 な人たちも同じ動機で自制を作り出します。「私はあいつよりもモラル的に良い人間だ」、「誰よりも祈っている、聖書を読んでいる、誰よりも仕えている、私 の教会は他とは違う」と自負することで、自制や努力の力が生まれています。結局、自分の価値や存在感、アイデンティティーを確立するためにやっていること になります。

世の中での「愛」、「やさしさ」、「慈愛」、「慈善」はどうでしょうか?それを与える対象の人に、気に入られたいという動機によっても表面的にする ことも可能です。または、それらをしている「良い人間」の自分を作り出す為、自分の存在意義を確立することが動機にもなってしまいます。それらは本当の愛 ではなく、偽物であり偽善に結果的になってしまいます。心底相手の為ではなく、自分の為という動機が奥底に隠れています。結局、このような動機が土台な ら、貧しい人々を助けたりする施しの行動ですら、自分の為になってしまいます。結局、自分が「良い人間」だと感じるために彼らを利用しているにすぎませ ん。

では聖書の言う、同時に9つの要素を生み出すとはどういうことでしょうか?

それは先ほど言ったように、すべての動機がお互いに繋り、頼り合っているということです。

例えば、自分を自制するとき、プライドが根源ではなく、愛になります。「神様に愛されている自分、犠牲を払ってまで罪人の自分を愛してくれた事実」から来ます。  自分の存在価値はイエスから既にもらっているはずなので、プライドや他人に「負けないため」という恐れや「自分の価値」を高める理由から行動する必要がな くなります。逆に。ただ与えてもらった人生を最大限に神様と人々の為に使えるように、神に受け入れられている「喜び」と感謝から自分を自制し使命を全うで きるようになります。また人と比べることも、他の人より勝ろうという完璧主義的なプレッシャーもないので「平安」もあります。時間を無駄にせず、同時に明 日の心配し切羽詰ることなく神様に頼りながら自制できます。更に、自分を自制するとき、自制できない人々を裁くことなく、「優しさ」と「慈愛」で見ること ができます。自分も本来イエスなしではそうなると自覚しているからです。それ故、「謙遜」もしっかりあります。

慈善や慈愛の行動も、自分のためではなくなります。既に自分のアイデンティティーは神様の愛からもらっているので、存在意義を自分を 形成しなくて良いからです。初めてその時、自分の為のではなく純粋に人々の為に行動できます。他の人に気に入られるために優しくなるのではなく、正しい時 に「優しさ」を与え、時に厳しさと真実が必要な人には、「謙遜」を持ちながら戒めることができます。これは神様に対しても「忠実」な行動になり、まだその 相手の為にという視点からも「忠実」な行動になります。自分のニーズによって動機や行動が決してブレないからです。

上の線で引いた箇所がカギだと分かるように、これらがすべて福音の要素が根源になっていることは分かると思います。要は、前回の内容のように、福音が種であり源でなければ、自然には正しい実は生まれてきません。結局、宗教的に偏った自分を作り出してしまうだけです。

ミニストリーで活躍している自分がいても傲慢になります。自制心があり成功しても優しさに欠け、すぐ人を裁き、見下す人間になります。表では愛を語 り、自分を好いてくれる特定の人には慈善も善意を見せれるかもしれません。でも自分と合わない人や、違う意見も持つ人にはイライラし、また避けたり、追い 出したりする行動に出るような人間になってしまいます。間違っていることが自分の目の前で行われているのに、世間の目や自分の立場や心地よさを守るため に、立ち上がることができない臆病な人にもなります。それはミニストリーや組織に忠実ではあるように見えても、結局は神様の価値観に対しては忠実になっていないことです。パリサイ人という宗教家達がまさしくこんな状態だったので、イエスは彼らの種(教え)に気を付けろと言いました。

皆さんは、どのような「実」をクリスチャンの人生で生み出していますか? 正しいイエスの福音により、正しい「実」と人生の影響力を持ってほしいと願います。 これはみんな福音によって日々再確認していかなくてはいけないことです。

私たちのイエスなしでのディフォルトモード(基本設定)が宗教的なので、福音によって常に更新する必要があるからです(ローマ12:1‐2)。

神様の「実」を日本に生み出して行きましょう。

ではまた次回に。


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