最近学ぶことが多く、ブログでシェアしたいことが沢山ある。
旧約聖書の創世記に出てくる重要な人物の一人、ヤコブ。
先週はヤコブのストーリーからメッセージをした。
個人的には彼に関する聖書箇所を、洗礼を受けた時に友達から貰ったこともあり、いつも気になっていた存在だ。ヤコブは聖書に出てくるヒーロー??た ちの中でも、一番ヒーローの要素がほとんどないような男だ。でもその分、現代人の俺たちが実は一番共感できることも多いと思う。
ヤコブの人生は、何か特別にすごいことを成し遂げたわけでもなく、むしろ嘘をつき、人をだまし続けた人生だった。聖書を何度か読んだ人は分かると思 うが、ヤコブは次男でありながら、兄であるエサウに成りすまし、父ヤコブの死の寸前に兄が受取るはずの「祝福」(その当時の長男が受けとるべき権利)を騙 し取ってしまう。(創世記28章)
そこから彼の悲劇とドラマが繰り返されるかのように始まっていく。彼の人生にテーマをつけるなら、まさしく「Pursuit of Happiness 幸福の追求」かもしれない。初めから終わりまで祝福を追い求める人生だった。これも俺たちの時代の人々に似ている。
今回はこのヤコブの人生をじっくり見ていきたい。そして神様がこの聖書のストーリーを通じて何を言わんとしているのかを見つけたい。
先ほども書いたが、ヤコブは「祝福(幸福)」を得るために必死に生きて来た人間だ。父であるイサクは、ハンターであり肉食系の男らしい長男エサウを 気に入っていた。草食系で家(テント)にいつもいるヤコブは、母親リべカのお気に入りだった。でもその不公平な親からの愛が原因で、ヤコブは父親に認めら れたい、成功したい、人々に認められたいと人一倍思うようになる。でもいくら求めても父親のお気に入りにはなれない。この当時父親に認められることは重要 なことだったが、特にこのアブラハムの家系は、長男の権利は特別なものだった。それは神がアブラハムに約束したように、「一人の子孫から救世主が生まれ る」と代々信じてきたからだ。なので父の祝福を受け取る=歴史上重要な人物になれることでもあった。それと同時に兄弟間にプレッシャーもあったに違いな い。
その時代、「祝福」と言う概念は、俺たちが考える「金銭的豊かさ」的な単純なものではなかった。父親から「祝福」を受け取ることは、自分の将来を確定し、自分の存在とアイデンティティーを見出し、使命を示してもらうようなものだった。それほど特別な事だったのだ。
その「祝福」にあやかりたいとヤコブは追い求めていた。
そこでヤコブが取った行動が「コスプレ」だ。
「兄に成りすまし、兄が受けることができる゛祝福゛を受け取る。」 しかもその助言は母親リべカからアドバイスされたのだ。ある意味ヤコブは、クリスチャン家庭で育ってきて、神様の事を教えられてきた存在にも関わらずだ・・・。
考えて見てほしい。これは俺たちすべての現代人がやっていることだ。
「あの人のようになれれば、あの人の様に幸せになれるかもしれない」 「あの人の様に美人になれば、同じ服を買えば、スタイルが良ければ、人気者に・・・」 「あの人の様にスキルを磨けば、ビジネスを立ち上げれば、成功できるかも・・・」 「あの人の様に大学に行けば、資格を得れば、頭が良ければ・・・、認められるかも・・・」
このリストは尽きることはない。人々は「祝福」を得るために「他の存在」をマネ、自分自身ではなく誰かになろうとする。ヤコブと同じだ。それは自分を偽ることは自分を欺き、人をだますことに繋がる。
こうしてヤコブは兄の怒りを買い、殺されないために叔父がいるラバンのいるところに逃げなければならない。唯一愛してくれた母リべカから離れ、しか も2度と会うこともない旅に出なければならない。しかも一文無しだ。「祝福、成功、自信、そして幸せと豊かさ」を受け取るはずだった行動が、逆にヤコブの すべてを奪ってしまった。これもこの世の中と同じだ。手に入れたはずの成功と名声は、一瞬で消え去ってしまう。いずれは無に帰る。
自分の生まれ故郷を離れて行ったヤコブの絶望感は図りしれない。でもそのどん底の闇で神様に出会う。そう、有名なヤコブが見たの夢だ。そこで初めて 神様の存在をヤコブは感じた。そして神はヤコブに、「祝福、成功、将来、守り、そして神様との歩み」を約束する。(創世記28:13‐15) ここでまた 考えて見てほしい。ヤコブは今まで自己中で、嘘をつき、人をだましてきた嫌な奴だ。こんな奴に、いきなり神様が現れたのだ。なぜだ?
それは単純だ。神はそのような神だからだ。完全に恵みと愛によって動く神だ。むしろヤコブが「すべて失った」からこそ神様はヤコブを助けようとした のだと俺は思う。しかもこの聖書箇所では、「ヤコブの側に立って・・・」語ったと書いてある。ようは、本当の神は、天から見下ろして語る神ではない。「ハ シゴ(階段)」(ヤコブの夢の象徴)をわざわざ降りてきてくれる神だ。そして俺たち人間に自ら近づき語り掛ける神だ。この世の中の「宗教」とは天に繋がる 「階段」を登ろうと人間がただ努力するだけものであり、そして結果的には天には近づけない。でも聖書の福音は逆だ。「神である存在が、キリストとなって降 りてきてくれた」のだ。
でもこのビジョンだけではヤコブは変わらなかった。そしてそこで「神の家(教会)」の存在も知ることになるが、基本的なヤコブの問題は解決されな かった。これも俺たちに似ているかもしれない。クリスチャンになり神様の存在を知り、教会に行き始めるようになるが、まだ本質を心で理解できないことは良 くある。クリスチャンになったにもかかわらず、まだヤコブの様に間違った場所で幸せを求めている。
次のヤコブの「祝福」を見つける試みは女性だった。その後、叔父ラバンの娘ラケルに出会う。彼女には姉のレアがいたが、聖書によればラケルの方が全 然美人で、しかもプロポーションも抜群だった。そこでヤコブは文字道理「恋に落ちる」。そして彼女をゲットするために、とんでもない条件を叔父のラバンに 差し出す。「7年間働くから、ラケルと結婚させろ」だ。実はこのオファーは、当時の給料の基準からしても、あまりにも無謀な条件だったらしい。詳しくは説 明しないが、その当時の給料を結婚する条件と比較しても、実は2‐3年で良かったらしい。ようは、7年はバーゲンするどころではなく、理性を失って言って しまった条件みたいなものだ。それでも、ヤコブにとって7年は数日のようだったと書いてある。しかも7年が終わった後に、いきなり言う言葉は、「ラケルと 寝させろ・・・」だった。現代でもそうだが、花嫁の父親にそんなことを言うのは、この当時でもあまりにも失礼な事だった。
これでヤコブが何をしているかが良くわかるだろう。彼はラケルというモデルのような女性を勝ち取ることによって、やっと「祝福」を得られると考えているのだ。
「あの美人の彼女と結婚すれば、男になれる・・・。」 「彼女と結婚すれば、周りが認めてくれる・・・」 「彼女と結婚すれば、自分がカッコ良く見える・・・」
ようは、当初父イサクや兄エサウに対してしたことと何も変わってないのだ。
心に開いた穴を、別の場所で埋めようとしているに過ぎない。
「運命の人に出会えれば・・・」、「あの人に愛してもらえれば・・・」、「あのアイドルと結婚できれば(笑)・・・」、「・・・幸せになれるかもしれない」。
これもまた現代人の行動と何も変わらない。何千年も前と今でも人間の本質は何も変わっていない。
そしてやっとラケルと「寝れる」と思い、夜を過ごし朝起きてみるとそこには姉の「レア」がいたと聖書にはある。そこでヤコブは怒り、ラバンのところに押しかけ文句を言う、
「なぜ俺を騙した!?」
「騙す」と言う言葉を使った瞬間、彼の心に何かのわだかまりができたと思う。 そして次のラバンの答えはヤコブの心に突き刺さっただろう。
「この地域の習慣では、長女(長男)が妹(弟)よりも優先されるのだ。(英語ではOLDER BEFORE YOUNGER ONE)」 そう、これはヤコブ自身が兄と父親にしたことだった。弟が兄の祝福を奪い取った。そのことがそのままそっくり仕返しとして返ってきたのだ。もちろんヤコブはそれ以上何も言えなかった。
その後また、ヤコブはラバンを騙し、彼のビジネスをうまく利用して成功と財産を掴みとるが、結局また叔父のラバンから逃げるように出て行くことにな る。ラケルとの「結婚」では満たされずに、「仕事」で自分の心を満たしたかったのかもしれない。でも結果は同じだった。人間関係は壊れ、逃げて行く人生。
ここでヤコブは自分の故郷に帰る決断をし、そして自分が裏切った兄と向かい合う決断をする。初めて正しいことをする為に、命の危険を冒して神様に従 う覚悟だ。そしていよいよ兄と再会する日の前の晩に、人生が変わる体験をする。「神の天使(神自身)」が現れて、一晩中「取っ組み合い」することになるの だ。
ここで面白いのが、この「取っ組み合い(掴み合い)」の概念だ。ヤコブの名前の意味は、「カカトを掴む者」だ。実はヤコブは兄と双子で、胎内から出 てくるとき、「兄のかかとを掴んで出てきた」為にそのような名前になった。ようは彼の人生はずっと、祝福を「掴みとようとする」人生だった。ここで神がヤ コブとの「掴み合い」の表現も実はヤコブの名前と同じ語源だ。神はヤコブと「掴み合い(ヤコブ)」したとも言える。
これはヤコブにとって幾つかの意味があった。まず自分と今までの自分の愚かさと偽りの自分に勝つことだった。「祝福を間違ったところで“掴もう”としていた偽りの自分。コスプレしてきた自分」と向き合う事だった。
そしてもう一つが一番重要な意味だった。それは「本当の神様以外からは自分の心の穴を埋めることのできる“祝福”はない」という事だった。彼が最後に神様に言ったことを見てほしい。
「あなたが私を“祝福”してくれるまで、絶対に離しません!」
神様はヤコブにこのように言っていたかもしれない。 「お前は今まで人をだまし、利用し、幸せと祝福に飢え乾いて、自分自身をだまし追い求めてきた。でももう分かっただろう。私、神以外にそれを与えることができる存在はないと・・・。理想の結婚相手、金、成功、むしろ家族であっても自分をを完全には満たせない。」
ここで、神様は面白い質問をする。
「お前の名は?」 もちろん神様はヤコブの名を知っていた。でもわざわざ聞いたのだ、何かを確認するために。 そしてヤコブは自信を持って答える、「ヤコブ(掴みとる者)です。」
そして神は言う、「もうお前は、ヤコブ(ただ掴み取る者)じゃない。これからはイスラエル(“神が勝つ”または“神が優先”と言う意味)となる。お前は神と人間と掴み合いをし、勝ったのだから・・・。」
ここからヤコブの人生は本当に変わった。本当に大切な事に気づき、そして神様を掴み取った瞬間から・・・。その後、兄と和解していくことになる。
俺たちも全く同じだと思う。ヤコブの様に「祝福」の為にもがき、人間関係と仕事に苦しんできた。それでも本当の意味で、神様に出会い、そして神様にしがみつこうとするまでは何も変わらない。ただ同じ満たされないままの穴を埋めようとするだけだ。
「イスラエル」は歴史を見ても分かるが、かなり重要な存在だ。ヤコブは何一つ正しいことを人生でしてこなかった。旧約聖書の中でも一番情けない人物 かもしれない。でもそんなどうしようもないヤコブに、これほど重要な名前を与えた神、ここに聖書のメッセージの本質がある。それは神様の本当の恵みだ。
実は「本当のヤコブ」はイエスキリストそのものだ。ヤコブとは逆に、独り子という長男でありながら、唯一神である父から「祝福」を受け取る権利が あったにも関わらず、俺たちの姿という人間になり(究極のコスプレ)、その権利を自分から十字架で捨て、そしてそれだけではなく死に打ち勝った。それは俺 たち「弟・妹」たちがイエスという長男の代わりに祝福されるためだった。これはイエスはまた本当の良い兄エサウでもあるということでもある。
だからこそイエスを受け入れ信じることにより、もう俺たちはヤコブの様に「祝福」を得るために彷徨い、嘘をつき、自分を偽り、他人になるために命を削らなくても良いのだ。
運命?の人を追いかけるために必死になり、成功の為に仕事で他の人々をけり落とし、だますこともしなくて良い。もう「祝福」に振り回されるような人生を生きなくていいのだ。
それはただ「神の恵み」のおかげだからだ。
最初にヤコブが見た夢のように、神は「降りてきてくれる」神だ。 ただ俺たちが「階段」を登るのを笑って見ている冷たい神ではない。 他の宗教のように、ただ自分の自身の努力だけで階段を登ろうとするのではない。 でも逆にどん底にいる俺たちの側に来てくれた。
これがイエスの福音のメッセージだ。すべての宗教や思想、哲学とは全く異なる真実だ。
もしみんながヤコブの様に「イエスなしで、もがく人生(STRIVE)」を生きているのなら、ここで心底分かって欲しい。その生き方に「終りと満た し」は決してないことを。
それこそ永遠の地獄のようなものだ。でも逆に、宗教と言う形ではなく、本当の意味での「福音」を受け取り、イエスを信じるなら、 その瞬間から人生が正しい方向に向かい始める。ヤコブの様に。
次回は同じストーリーに出てくるレアの視点から見ていきたい。
ではまた!