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福音を土台としたコミュニティー


前回のダビデとヨナタンの友情を軸とした延長線のトピックになりますが、教会というコミュニティーがどういうことなのかシェアしていきたいと思います。うちの教会でも今一番教えられ、フォーカスされ、チャレンジを受けている内容です。

キ リスト教の神の概念はすごくユニークなものです。一般社会では、大体2つの神の性質の見方をします。それによって宗教の在り方も変わってきます。その一つ は、一神教的神観です。ユダヤ教やイスラム教はこれに入り、唯一の神の存在を基本に信じています。もう一つはと多神教的神観です。仏教やヒンズー教などは こちらに入るでしょう。キリスト教も一般的には一神教的神観とされていますが、実はちょっとユニークな神の概念を持っています。それは三位一体の神のコン セプトです。神は唯一だが、3つの人格または存在から一つの存在として成り立っているという考え方です。それは、父、子(イエス)、聖霊の三つで一つの神 ということです。実はこのような考え方を持っている宗教は純粋なキリスト教だけです。これが何故今回のコミュニティーという概念に関係あるのでしょうか? 実はすごくあります。この神の概念により、コミュニティーという人生においての共同体の大切さが生まれてくるからです。

簡 単に言うと、神様はその存在自体が既に、コミュニティー(家族)と言うことです。キリスト教の神は、唯一の神ですが、独りぼっちじゃないんです。寂しいか ら人間を作ったのではないということ。そしてさらに聖書は、人間は「その神」に似せられて形作られたと聖書の創世記1:27では言っています。それが私た ち人間にとってどういうことかというと、私たちもひとり一人ユニークでオリジナル(唯一)ですが、同時にコミュニティーが必要であり、他者と共存して生き てくようにデザインされているということです。要は、一人の時、「寂しい」という思いは、自分の不完全さだから来る感情ではなく、むしろ完全さ(神のデザ イン)から来るものです。罪が入る前に既に、「人が一人でいるのは良くない」と言った神が、コミュニティーの大切さを知りそのように私たちを作ったからで す。コミュニティーと共に生きて初めて、自分の存在が完成されるということです。自分の力では、「自分の完成」はできないということです。なぜなら私たち はキリストの体のコミュニティー(ローマ12、1コリント12)として初めて自分自身を知り、完成されるからです。

要は、教会に行っていない、またはそのコミュニティーから自分を避ける=自分を避けていることになります。結局自分から逃げ、神様が思い描く本来の自分から逃げることになります。

で もそれが真実なら、なぜこんなに人間関係やコミュニティーを作ることが難しいのか?と思うでしょう。なぜこんなに家族の関係や、結婚において苦労しなけれ ばならないのか?なんでこんなに他人に傷つけられ、教会に葛藤し、社会や会社でストレスが溜まり、時には人間関係に対して面倒くさいと思うのでしょうか? コミュニティーと一緒に生きるようにデザインされているならなぜ簡単ではないのかと考えるはずです。

その答えは、単純に、「人間が壊れてい るからです」。罪によって本来の機能ができないからです。アダムとエバが罪を犯した瞬間、すぐさま反応した行動は、「恥」と「責めあう」ことでした。今ま で、パラダイスという神と人との関係を土台に機能していたコミュニティーと自分の存在のバランスが一気に崩れて、自己中心な視点に変わってしまったからで す。「恥」という自分がどう見られるかを気にし始め、また「相手の方が悪い」そして「自分は悪くない」という究極的なIndividualism(個人主 義)が始まってしまったのです。

これは前回のダビデとヨナタンの友情で触れた、「消費者と商人ベースの友情」と同じです。今の社会 を見れば究極的には、すべて「自分中心」が軸で社会、会社、組織そして教会ですら「自分中心」ベースに機能していることは分かるでしょう。もちろん私たち の奥底には、コミュニティーを求め、良い一致を求めなくてはいけないことは本能的にデザインされていることは分かっていますが、「神様の救い」という福音 の答えがないと最終的には分裂と競争や比較に陥ってしまいます。

では、「どうやって神様が求めるコミュニティーを築いていけるのか?」と思 うでしょう。そのためには、その本来あるべきコミュニティーの姿と世の中の壊れたコミュニティーの違いを理解しなければならないと思います。聖書的には、 それを二つの違いで表しています。その違いは、自分中心か、神様中心かです。まずは自分勝手さが中心のあり方を、「機能的コミュニティー」と言います。そしてもう一つは理想の在り方は「形成的コミュニティー」です。

機能的コミュニティーは、自分自身をその中心に置きます:“私”の必要と思いを満たす為に、彼ら(他者)がどれ程よく機能してくれるかに人間関係の価値を持ちます(“彼らが私の必要の為にちゃんと「機能」しないなら、私は彼らを必要としない”となります)。

形成的コミュニティーは、神様をコミュニティーの中心に置きます:神が私を変え、神様のイメージを反映させる為に再形成してくれる目的の一部として自分の人生の人間関係に価値を置きます。

この違いをもっと詳しく見たいと思います。

機能的コミュニティーは、人との問題が起きたとき、自分の利益が優先なので、その人を排除したり除外する傾向に行動します。結果的に、「利益」がないので関 係を切りたくなります。その人を突き放したりするために、その人の悪口を言うかもしれません。自分の方が正しいと言うことを強調する場合もあるでしょう。 または単にコミュニティーから逃げようともします。相手と向き合うことをできるだけ避け、解決を引き伸ばします。

形成的コミュニティーの観 点で生きている人は、他者との問題が起こった時、「神様が自分を成長させてくれるチャンス」として見れます。なので、相手の問題を見ると共に、自分の弱さ や罪深さに向き合います。自分だけの成長の為ではなく相手の成長の為でもあるとも見れるので、お互いに忍耐を持ち、同じ罪人なんだという自覚から、上から 目線ではなく、むしろ謙遜的な形で相手と向き合い、解決しようとします逃げるどころか向き合えるのが特徴です。

機能的視点の場合、コミュニ ティーに入る際。自分の人生の祝福(仕事の成功、結婚パートナーの発見)、また自分がどれ程活躍できるか、用いてもらえるか、または自分の成功する道があ るのかという視点で入ってきます。ここにある人間関係は自分にどのような利益があるのかをまず見ます。それが叶えられなかったり、自分が活躍できなかった り用いてくれなかったりすると、そのコミュニティーに不満を持ちます。なぜ「自分を見てくれないんだ」、「なぜ自分の存在の価値を分かってくれないんだ」 と思います。他の人が昇進したり用いられると嫉妬し僻みます。結果的に、そのコミュニティーを離れる場合でも、そのコミュニティーが悪いんだとして、コ ミュニティーの悪い点を挙げて去っていきます。結局、自己中心的な言い訳をします。

形成的視点も、まず入る時にそのコミュニティーの問題や 弱点は現実的に見えるでしょう。でもその時に、自分の能力やスキルまたは存在がどのようにそのコミュニティーの為になるかを考えられます。自分の利益では なく、コミュニティーの利益を見るような態度を持とうとしているからです。なので、自分のいるコミュニティーが批判されても言い訳をするのではなく、現実 を受け入れます。でも同時に、その「コミュニティーの形」に、「自分の存在という形」を照らし合わせる時、新たな自分を発見し、また自分が成長できるチャ ンスであるとも見ることができます。なので自分を変えることにより、コミュニティーを変えることには恐れはありません。またパートナーを見つける時では、 その「彼氏彼女がどれ程自分の理想に叶っているか」ではなく、どれ程その人を知り、お互いに成長できる親友となれるかを基準に接し付き合います。

機 能的視点のコミュニティーのリーダーシップは、自分の目的やビジョンを強調します。よってコミュニティーにいるメンバーをどう利用するかを考え、自分の人 生(生活水準の豊かさやポジション)に最大限の結果を出せるかだけを見ます。もちろんそれぞれのメンバーの能力やスキルは把握するでしょうが、「自分をど う彼らは補えるか」の視点です。なので、そのメンバーがうまく機能しなかったり必要がなくなったらすぐ切り捨てます。また「機能」をスムーズにするため に、特有のルールやシステムを作ることで、メンバーを管理します。それに従わせて「機能」させておけば常に自分の利益に自動的につながるからです。その ルールや規律から外れた人がいれば除外すれば良いからです。それから来る動機は恐れです。

形成的視点のリーダーシップは、人との衝突、ビ ジョンや意見の不一致が自分を磨くことであるとも知っています。結局自分の計画やビジョンではなく、神の計画とビジョンなので、その神のビジョンに与えら れたメンバーの特徴や違いを受け入れます。自分や組織で決めたルール(DNA)に従わせるのではなく、イエスの福音という聖書のDNAの一致を図ります。 問題や衝突が起こるときに、メンバーだけを変えようとするのではなく、「自分が変わらなくてはならない」という自覚と謙遜さもあるので、強引ではありませ ん。そしてコミュニティーを機能させるために、ルールではなく、愛と理解を用います。そこから来る動機は、自ら~「したい」という思いと積極性です。

機能的視点の人は、自分のオリジナルさと自分の人としての価値を強調し、それを他に見せようとします。成功した時他者を見下し、失敗した時、他者のせいにします。

形 成的視点の人は、自分のオリジナルさを把握している同時に、コミュニティーの価値を分かっている為、自分のオリジナルさは周りの人々のユニークさ無しには 機能しないことも分かっています。なので成功した時、他者の存在をもっと喜び感謝します。失敗しても、周りの赦しと神の恵みがあることを知っているので、 自分の弱さに向きあい、そして更に周りのサポートも素直に受け入れることができます。結局、失敗=さらなる成長の為と分かっているからです。

違いはまだまだありますが、どれ程違うか分かってくれたでしょうか?

どうやったら形成的態度のもっと方を持つことができるのでしょうか? 簡単ですが次のことの自覚が大切だと思います。

-まず自分が壊れていることを自覚する。 ₋そしてその「故障」は、自分でいくら直そうとしても自分の力では直せないことを自覚する。コミュニティーはある意味、その故障の度合いを浮き彫りにしてくれる環境であることを知る。 ₋その自分に向き合ったとき、イエスだけがその罪による故障を修復していけることを自覚する。 ₋コミュニティーや人間関係からは、自分の故障に対して直す為に必要としている、愛、満足感、認められること、安心感、用いてもらうこと、安全は決して究極的には得られないと自覚する。イエスだけからしかもらえないから。それを忘れた瞬間、他者を利用し始めます。 ₋ コミュニティーはいざという時のセーフティネットはなく、むしろその上にある綱渡りのロープのようなものだと知る。結局前に進み、他者と向き合い、赦し、 成長するか、または逃げて自分勝手さの世界に逃げ、コミュニティーから次のコミュニティーへ逃げるしか選択肢はないことを知る。コミュニティーは、私たち が成長するために神様が用意した環境だという自覚。

結果、コミュニティーを霊的成長の為だとみることができ始めると、人間 関係においての全ての葛藤や問題を、“福音による機会”として見ることができます。その機会とは、福音の中で与えられた神様の約束をもっと深く信じ、神様 の思いと道に従い、聖霊によって私の心と人生を変えてもらうチャンスのことです。人との葛藤・衝突=もっと神様を愛し、神様に頼る生き方ができるというこ とです。逃げて、赦せず、人を突き放した瞬間、神様の計画と成長から外れていることになります。

最後は、

₋「形成的コミュニティー」を目指して、自分自身に福音を適応している牧師やリーダー、メンバーたちがいるコミュニティーに入る。

あ なたの牧師やリーダーたちは、自分の弱さを自覚していますか?一番悔い改めていますか?人を本当に赦していますか?他者と問題があったとき解決し和解した いという態度で常にいますか?それとも人を突き放していますか?福音によって彼ら自身がコミュニティーの中で変えられていますか?

私も牧師 として常に人との葛藤はチャレンジです。葛藤や問題があるたびに、自分の弱さに向き合わされます。でもそこで、究極的には二つのチョイスしかないんです。 自分を守るために、その人を突き放し自分の正しさを強調するか、そして教会存在すら自分の為に利用して立場と権力を振るうか。または自分自身が、イエスだ けに救われていることを思い出し、福音によって自分を蔑み、同時にイエスだけが自分を変えることができ、そしてその衝突ですらイエスが自分に何かを教えよ うとしている機会であることを受け入れるかです。

形成的コミュニティーを作るのはすごく時間が掛かります。一人ひとりが本当の意味で神様に 変えられていかないと完成しないからです。でもその土台は固く、本当に素晴らしいコミュニティーとして機能し、内側だけではなく、外側(社会)にも素晴ら しい影響を与えていける存在となっていくでしょう。

諦めずに、このような土台を持った教会をもっと日本に増やしていきたいです、イエスの福音を土台に!

ではまた。


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