
皆さん、お久しぶりです。またしばらく更新をしていなかったですね。
すいません。
10月からうちの教会で水曜礼拝が新たに始まり、
毎週、創世記のメッセージをするために個人的にもすごく学ばされています。
最初から、福音の要素が満載で、こんなところに福音が隠れていたのかと感動しています。
その中で最近、再確認させられたことをシェアしたいと思います。
Genesis 6:6b(ESV) "it grieved him to his heart. "
創世記6章6節 (英語直訳)「心でそのことを嘆いた」
(深く悲しんだ、新改訳では”心を痛められた”)
この節は、神が、この世の人々の悪と暴虐を見て、洪水でノアと家族以外を滅ぼそうとする直前に書いてあることです。
人類を裁き、罰する神。この神の性質と概念は多くの人々が躓きます。
愛の神が、「なぜ神はそんなに酷いことをするのか!?」と。
でもここまでの創世記1章から7章までの学びで気づいたことは、神は常に恵み深く、忍耐強く、そしてその行動は完全に正当ということです。
この同じ6章では、ヘブル語で見てみると、「人間たちは、お互いに暴虐によって滅ぼしあっていた」とあります。だから神は、その当時正しい人であったノア以外を「滅ぼすことを決めた」と理解できます。
別の言い方をすると、「あまりにも人間が酷く、お互いを殺し合い、残酷だったために、神はその苦しみに終止符を打った」ということです。
聖書では、神は愛の神であると共に、正義と聖なる神として描かれています。そして実は、神が裁くとき、罰という行動を取るとき、必ず恵みの要素もあるということです。そして人類や街を滅ぼすときは、常にその正義と恵みによって行っています。
ここでは、もうどうしようもなかった人間たちに対して、神自ら、恵みが故の裁きを下したということです。
そして、先ほどの「深く悲しんだ」という説に、神の恵みと思いが詰まっています。 なぜ神が悲しむことに恵みがあるのでしょうか?
こう考えてみてください。
神は、創世記の3章でアダムとエバが罪を犯したとき、4章でカインがアベルを殺したとき、そしてこのノアの洪水でも、人類とこの世界を終わらせることはできたはずです。なぜなら人類を生かしておいても、これまで神には、「痛みと後悔」しかもたらさなかったからです。
「もういいや」、「面倒だ」、「彼らは殺し合い、苦しんできるけど放っておこう」と思い、自ら心を痛めるよりも、消滅させる、または無視することもできたはずです。私が神だったら、恐らくそうしていたでしょう。
でも、そうしませんでした。「楽な道」を選ぶよりも、人間のために、神は自ら苦しむことを選びました。選び続けました。
罪を犯し続ける人間を、この世から消し去るのではなく、その罪と葛藤し向き合い、人間を取り戻すことを世界と人類の堕落の初めから選んできました。
罪と戦い、裁き、解決する神、自ら苦しむ神。
既に、イエスの十字架と贖いという神の計画と、神様の性質は最初から現れています。
完全に正義と裁きを持つ神であり、そして永遠に愛し続ける神。この対象的とも思われる、2つの要素が、時を超え、歴史を超え、やっと一致し全うされたのが、イエス、そして彼の成し遂げた十字架での死と復活です。
人間の罪があまりにも酷く、醜く、自分たちでは決して解決できないからそこ、神はと人なり、自ら罪を背負い、死にまで従い解決しなければならなかったこと。
イエスの死は、正義と裁きを表します。
でもそこで終わるのではなく、人類を取り戻し、関係を修復し、あのパラダイスよりもっと素晴らしい世界と関係をもう一度作りたい、という思い。
これはイエスの復活と再臨に現れています。
ここでその福音の偉大さと広さと深さを表すことはできませんが、できれば皆さんにはその断片でも掴んで感動してほしいです。
どれほど、イエスが神の計画、心、思い、夢、痛みと苦しみを反映しているかを。
この福音を私たちが、信じ心で本当に理解したときどう変われるのでしょうか?
まず、人間関係に対して神様と同じ態度になっていきます。
私たちは、人間関係において、面倒くさい、ぎこちない、気まずい、傷ついたり、心地悪いことがあると、「逃げたがります」。
その人を避けたり、無視したり、できるだけ会わないようにしたり、教会やコミュニティから孤立したり、輪を抜けたり、特に傷つけられた時には、その人を押し出し、突き放します。でもキリストを信じていながら、そのようなことを続けているなら、私たちは行動で福音を結局信じていないと示していることになります。
なぜなら、私たちの神は、自ら苦しむことを選び、関係を取り戻し、修復しようとする神だからです。
イエスを通して、そうしてくれた神を信じているなら、なぜ自ら痛みを背負い、その相手との関係を取り戻そうとしないのでしょうか?
そして赦そうとしないのでしょうか?
もちろん、それは相手も同じ思いにならなければ、完全な和解や関係の修復にはなりません。
でも、私たちクリスチャンのあるべき態度は、常にその修復を願い、待ち続け、行動に移し続けることです。 相手が心を開くまでです。
放蕩息子を待つ父親のように。
外で私たちの心のドアをたたき続けるイエスのように。
それができないのは、まだ神がイエスを通して自分にしてくれたことを理解してなく、福音の素晴らしさと美しさに感動していないからです。
自分がそれをトコトン体験してないからです。相手を愛するよりも、自分の心地よさ、自分の都合、自分のプライド、自分が持つ優越感や被害者意識にまだ浸りたいからです。
福音を本当に分かっているなら、私たちは、常に心のドアを相手に開けていられると同時に、真実を正直に言う自信を持っています。
神が、裁きの神であり、罪を無視するような神ではないように、私たちも相手が犯した間違いや罪を、不正なことを、正直に愛を持って指摘することができます。そしてその人がその罪や問題に対して葛藤していることに対し、心から共感し、「心を痛めながら」本当に解決してほしい、変わって欲しいと思えるはずです。なぜなら神様が自分の問題に対して、心を痛めながら裁きをし、同時にその罪と問題の裁きすらイエス自ら背負ってくれたからです。
私たちも、相手を赦すと同時に、臆することなく正直に真実を伝えられるはずです。
そして、他人に対するこのような自己犠牲と謙遜的な思いと愛は、決して私たち人間にはできません。 イエスの福音と聖霊の力なしには、絶対できません。
今日もう一度福音に頼ってください。それを信じてください。 そして、今まで避けてきた人、「どうでもいいや」と思い関係を断ってしまった人、傷ついたり、心地悪くなったりするのが嫌で離れてしまった関係や、コミュニティ、チーム、仲間にもう一度アプローチしてみてください。
そしてそれがイエスの体である教会であるなら、なおさらです。 その教会の牧師やメンバーたちが、この福音の概念と神の心の上に立っている教会なら、関係の修復に向かっていけるはずです。
そうでないなら、福音の上にしっかり建てている環境に、自分を置きながらその人たちのために祈り、常に和解できるように祈っていきましょう。
福音の態度を持ち続けながら、苦みや拒否することを避け、自分を傷つけたその人たちに対して和解のドアは常に開いておいてください。
福音に戻ろう。
ここでノアの箱舟のメッセージが聞けます。 https://soundcloud.com/doubleo-cross-church/20161123-67a
Podcastは、 https://itun.es/jp/wNMbab.c