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福音が機能している証

私達の教会開拓も始まってもう5年経ちます。 福音中心を土台にして始まった教会も、神様の恵みと働きにより日々成長させてくれていますが、5年間牧会する中で、この質問がずっとありました。 「福音が人々の中で機能している、成長しているかどうかどのように分かるか?」

この質問は、多くの真の意味での、福音中心を根ざしている牧師やリーダーたちが常に見つめ直していることだと思います。 もちろん、この答えに対して、聖書は、「聖霊の実(過去のブログ参照)」や「あるべきクリスチャンのライフスタイル」と言う目標として明確なことを教えていると思います。でも毎日の現実的な人生や教会のコミュニティにおいてどう言うことなのか? 今回はその疑問について牧会の経験から幾つかシェアしたいと思います。 福音を追い求める姿勢:

福音を基本から教え始めた時、多くのクリスチャンから一番最初に受けた反応はこれです。 「何で福音という基本をまた学ばなくてはならないんだ?」 この質問自体に、既に「福音の理解について勘違いしている」ことがわかります。福音は基本であると同時に、クリスチャンの毎日の成長と成熟に必須な全てです。要は、福音を基本とだけしか捉えてないと言うことは、福音という恵みから離れて、自分の努力やパフォーマンスで成長しようとしてることを意味します。別の言い方をすると、「福音を知っていると思っているなら、福音を分かっていないと言うこと」です(1コリント8:2、1ペテロ1:12参照)。 「クリスチャンにとって、福音はABCではなく、A-Zです。」(ティム・ケラー) 悔い改め、神に頼ることができる姿勢:

福音を知識や概念的にすぐに把握することができる人は多くいます。でも本当に福音が自分の心で機能しているかは、一番「悔い改めと信仰」に現れます。それは特に、人々との衝突、コミュニティでの葛藤、人生の様々なプレッシャー下で現れます。 まず教会で良くあるのは、「人々との衝突や葛藤という心地悪さ」でしょう。その時に必ず通ることは、「自分の中の罪を見えるかどうか」です。ほとんど場合、人々は自分の非を認めようとしません。「周りのせい、相手のせい」にします。福音が機能している場合は、葛藤しながらも、自分の弱さを見ることができ、プライドを捨て、「自分の偶像からくる恐れ・プライドにより、外からのプレッシャーやストレスにどう反応してしまったのか」を見ることができ、まず自分の中のものを真の意味で悔い改めることができます。そしてまた一歩先の霊的成長につながります。でも逆に、いくら聖書の概念や訓戒によって、指摘しても絶対に自分の中にあるものをみようしない人々も多くいます。表面的には、「もし訳ない、すいません」と日本人は良く言いますが、奥底では「相手や周りのせいで自分はこのような反応をしているんだ」と信じきっています(ヤコブ4参照)。そしてほとんど場合は、教会(システムややり方)のせい、牧師のせい、他人のせいを貫き通して、コミュニティを去るか、孤立します。または逆に周りをコントロールし、自分の正しいことを影響力や知識、地位を使って、ねじ伏せようとする場合もあります。 これは牧師にも同じことです。同意してくれない人、福音を理解してくれない人、反対する人達に向き合うことは常にあります。そこで私達リーダー達も自分に福音を適応できなければ、常に「教会員のせいでミニストリーが上手くいかない」、「協力的でないから」、「彼らの寛大さがないから」などど様々な外側の要素に不満と責任をぶつけ始めます。結局は、最初の「福音を自分は知っている」というプライドの問題に戻ります。 逆に、福音が自分の中に機能している状態なら、それらの衝突や課題に恐れることは無くなります。それらを「人々の中の福音を試す要素」として見れるからです。困難は脅威ではなく、成長に必要な糧だと分かります。恵みの旅路の一部だと理解できます。そして自分も同じことを通ってきたので、中々福音を適応できない人々にも、理解と忍耐を持って接することができ始めます。 外に向けられた姿勢と人生:

福音が悔い改めと信仰によって自分の心に左右し、刷新が起こされて行けば行く程、「自分(自己中心さ)をキリストにあって否定し始める」ことができます。別の言い方をすると、自分のニーズよりも、人々のニーズ、自分の町や周りのコミュニティのニーズに目が向き始めます。福音が機能している状態の素晴らしいところは、それらの人々に仕え、神様のミッションをすることに対して、「繊細かつ自信とタフさ」の両方を兼ね備えていることです。 もちろん、福音を自分に適応せずに、「仕える」ことをしている人々は多くいます。でも必ずすぐに「ガタ」が来ます。自分の思い通りにことが進まなかったり、周りの人々がビジョンに同参しなかったり、傷つけてきたりすると、すぐにまた「同じ反応」をします。「自分の中を見えずに、周りのせいにすること」へ逆戻りです。「自分に拘りすぎているから、本当の自分を見ようとしない」のです。皮肉的ですよね。「自分をキリストにあって否定すればするほど、自分を見て悔い改めることができ、自分に拘りすぎて自己中心になればなるほど、自分を見失う」(マタイ10:39参照)ということです。そして最悪の場合、また別の環境や教会・コミュニティに行き、同じ悪循環に戻ります。 でも福音が本当に機能している場合は、それらの「困難」すら自分の霊的成長の糧にでき、更に人々の罪の機能や現実も学ぶので、忍耐を持つことを学び、同時に愛を持って効果的に助けることを学びます。人々を完全に突き放すこともせず、同時にその人が変われるタイミングまで忍耐を持った愛で見守り、また一旦主にあって手放すこともできます。福音を通して、苦しみのサイクルでさえ、成長のサイクルの原動力にできるということですね。このような生き方は、自分の福音の刷新から始まり、コミュニティ(人間関係)に影響し、更に町や都市、世界を変える憐れみ、正義、伝道、教会開拓(新たなコミュニティの生成)に繋がります。 どうでしょうか?簡単に説明しましたが、皆さんの人生の中では、福音は本当に機能していますか? 最後に、この福音の循環の良いところは、「自分で作り出せない」ところです。自分では決してフェイクできないということです。 自分の努力、自己啓発、方法論では、絶対に真の福音のバランスと循環は生み出せません。 結局のところ、最初の福音の恵みと真理に帰るしかないということです。

福音のABCを捨てて、XYZを作り出せないということですね。 自分の力で機能させることをやめ、福音を見続け、福音に戻り、常に福音を通して生きよう。


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