皆さん、お久しぶりです。 私たちの教会も、福音中心を土台とした教会として始まってもう5年。 時が経つのが早い! その中で牧師としていろいろ学ばせてもらっています。 そこで、「福音中心さ」について改めて気づかされていること、そのことを今回はシェアさせて頂きます。 「自分の心の中に、福音が本当に働いているか」それはどうしたらわかるのか? それは皆さんも考えることだと思います。 福音の「種(Seed)」が、心に入り込んだかどうか?それを判断する一番重要な要素は、やっぱり「悔い改め」だと本当に感じています。 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15) イエスは、この福音と神の国、そして私たちの心の状態の概念をマタイの13章で明確に教えてくれています。でもその福音と神の国に対する反応を、イエスは、「悔い改めて福音を信じる」と要約してくれています。 私達の教会で福音中心を教える時、必ずまず最初に教えるのは、罪の概念です。また「罪」と言っても現代の人たちはピンとこないので、心の偶像のメカニズムで説明します。根本的に、罪はただ何か悪いことをするという「表面上の態度や行動」をだけを指すのではなく、何を心で究極的な神としてしまっているかと言う、「心の状態(人を汚すものは心からくる:マタイ15:18)」のことだからです。 でもこれがかなり厄介なんです。 なぜなら、私達は皆、自分の心の内を探られたくないですし、本当の神以外で実は心底頼ってしまっている人生のある「もの」を捨てたくはないからです。 この福音と聖書にある偶像の概念を教えると、大概、面白い具合に三つの反応があります。 最初は「完全拒否タイプ」。
「自分にはそのような問題はない」と言い張る人が良くいます。イエスの例えで言うと、これは福音の種が表面に落ちているが、敵に持っていかれるタイプです。理解するどころか、自分の中に根本的に問題があると認めたくないんです。なぜでしょうか?それは単純に、認めてしまうことで今まで頼ってきた「偶像」そのものを、自分自身を支えてきた価値感、心の支えを完全に捨て始めなくてはいけないからです。福音は結局、自分が根本的に、「心で信じていること(必要だと思っていること)」を変えさせる力であり真理です。結局、この状態のクリスチャンは、クリスチャンと言いながら福音のそのものの意味を全く理解せず、自分の根本的な問題も把握できずにに生きているということです。クリスチャン人生を生きながら、何度も同じ問題にぶち当たり、何度も同じ間違いを犯していることでしょう。自分のが持っている人間関係の問題を見てみてください。それらの全ての関係において唯一の共通点は、結局「自分」でしょう? 2つ目は、「大発見!と喜んで言いながら結局変わらず拒否るタイプ」です。 最近多くのクリスチャンは、「福音中心性」に興味を持っています。そして私たちの教会のメッセージやこのブログを通して来てくれ、福音をもっと知ろうという思いがあり、とても感謝なことです。最初は偶像の神学的概念やメカニズムを通して、新しい自分や人の見方だと興奮します。表面上では同意し、「喜んで」受け入れてくれるように思われます。でも根が成長しないことがあります。 それは人間関係や教会コミュニティとの葛藤、自分の求める教会ビジョンやクリスチャン価値観の不一致、また人生の困難などの、「外側からくるプレッシャー」が来た時です。そこで多くの場合、自分の心の偶像がどう反応しているか決して見ようとせず、必ず「周りの要素のせい」にします。そこで相手や周りの批判をする前にまず自分の心がどう偶像や罪で反応してしまっているかを見ようと勧めると嫌がり、当初「喜んで学び始めた福音の悔い改めの要素」が、その時からネガティブなものだと言い始めます。結局、神学的知識レベルでは、福音を理解しますが、心で理解しない状態です。
イエスの例えで言うと、2番目の心の状態です。このような人々は、根本的に全ての問題は外から来ていて、自分の中に解決があると信じています。なので絶対に自分の中のものが究極的な問題の根源だと認めたくないんです。福音の考え方は、このような世の中の考え方とは真逆です。福音は「問題は自分たちの中にある罪から生まれ、解決は外からやって来る」ということです。更に言うなら、「外から解決がきて、私達の内側から変えてくれる」と言うことです。だからこそ「福音の種」なんですね。パン種やこの種の例えのように、最初は小さくとも、いずれ全体に人生と自分に全てに広まり、大きな木になると言うことです。
ちなみに、土の中の種ってどうやって芽を出すか知っていますか? それは土からくるプレッシャーです。日が照れ土が場乾き、雨や嵐で土がほぐされます。その繰り返しで、種の殻が割れて芽が出てきます。同じように私の心(土)は人生の様々な状況(苦しみ、葛藤、困難、また恵、成功や祝福)で乾いたり潤ったりして、福音が中にある試されマッサージされて始めて実を出す木になろうとするための芽を出しはじめると言うことです。 3つ目は、「喜んで受け入れ、ある程度自分が変わり、ちょっと長続きするタイプ」です。
今思うに、福音中心の最大の壁はここだと思います。このタイプの状態の人々は、神学的にも知識的、喜んで受け入れ、少しづづ福音を理解して心に入れ始め、変化が起こり始めて、心にも教会のコミュニティに根も張り、表面上「芽」も出始めます。でも必ずそこでやってくるのが、その芽の成長を邪魔しようとする誘惑の試練です。
それは、2番目の人間関係の「葛藤や人生の苦しみ」と言うより、イエスの例えの3番目の状態のように、「この世の心配事」という「雑草」が心に出てくる状態です。また、「敵が他の種を蒔いたことによる雑草」とマタイ13章にもあるように、間違った福音の教え(繁栄の神学、ハイパーグレイスの教え、また律法パフォーマンス主義的福音等)もあります。でも結局のところ、心の優先順位です。 それは、「独身の人にとっては、明らかに間違っている人と結婚しようとすること」かもしれません。 もしかしたら、仕事やミニストリーにおいて「自分と他の成功している人を比較したり、嫉妬する」ことかもしれません。 もしかしたら、「自分の子供や家族」という良いものかもしれません。 結婚、ミニストリーや仕事での成功、子供そして家庭、全て良いものです。
でも、究極的に試されていることは、それらを通して自分を「良い人間」、「価値ある人間」、「良いクリスチャン」として生きているのか、それともただキリストにある自分のアイデンティティに頼り生きるのかの試練です。 結婚できなければ、私は愛されている存在じゃないと思っていませんか? 仕事や自分のすることで成功できなければ、自分が価値ある人間だと思っていませんか? 自分の子供がちゃんと成長し立派な人間として育つことができないなら、私は親として失格だとと思っていませんか?
もちろんそれらの良い事は目指すべきことです。 でもそうならくても私達の存在価値は何もイエスにあって変わらないと心で分かっていますか?究極的に、それらのことが上手くいかなくてもストレスを溜める必要も絶望的にならなくて良いとと自覚していますか? 本当に福音を通して「悔い改めている」かどうかは、大概この三つの人生の心の状態やシーズンを通して判断できます。 そして、ここを気をつけてください。 「自分で悔い改めたから、福音の根を張り、実を出せる」のではなく、「福音そのものが悔い改めさせてくれる」ことを知ってください。
何故でしょうか?それはヨハネ12:24にあるように、イエスという完璧な神の実(一粒の麦)という種が落ちて死んだからこそ、それが福音の種となり私たちという多くの実を実らせられるからです。
結局、私達の根本的な問題は、イエスの存在、そして福音を通して、彼がしてくれた事、彼の十字架での死と復活という神の恵に感動してない、それが美しい、何よりも素晴らしく、価値あると思えないことです。 イエスと福音を見つめ続け、探り続けてください。恵によって生きている人は、本当の自分の弱さと罪を受け入れ、自覚する強さを持っています。決して「他人や周りのせいで今の自分はこうなっている」と思い続けません。でも自分を見つめると同時に、どんなに自分の現実が痛々しく絶望的な状況でも、神の恵みの働きに希望と信仰を置くことができる人です。 福音によって自分の罪と偶像が暴かれた時に、忍耐持って向き合えるように心から祈っています。そして同じ福音の力によって、苦しみ、葛藤、誘惑に打ち勝ち、30倍、60倍、100倍の実が出せるように! 福音に戻ろう。