マタイの書5章から7章にある、山上でのイエスの教え。
この教えは、聖書の中でもイエスの最初の教えという事で、クリスチャンとしての生き 方や大切な原則など重要な事が書いてある。そのためこの箇所からメッセージなどされることが多い。でもこの聖書箇所を読む上で大切な事を踏まえて読まない と、「HOW TO」としてとらえてしまう危険性がある。
これらのイエスの教えは、よく見てみるとあるテーマを中心に教えられていることが分かる。
この教えは、「どうやったら世の中と違うクリスチャン人生を生きることができるか」だけでなく、「宗教を超えて福音を中心にどう生きなければいけないのか」を教えている。
教え自体の内容が長いので、一つひとつの教えの内容は見ていけないが、今回は全体像を把握することで、イエスが言わんとしていることを学んでいきたい。
その「まとめ」である全体像は、マタイ7:13~にある教えの最後の例えから引き出せる。
「大きなドア」と「小さなドア」、 「本当の預言者」と「偽の預言者」、 「良い木」と「悪い木」、 「岩の土台の家」と「砂の土台の家」
この例えの特徴は、両方とも見た目は同じだという事だ。 2つのドア、2人の預言者、2つの木、同じ家。
同じドアでも、行き先が違う、同じ預言者でも目的が違う、同じ木でも出る実が違う、同じ家でも生みえない土台は違う。 片方は良く、片方は悪い。片方はもろく、片方は強い。片方は偽りで、片方は真実。 基本的に、中身や結果、またはある状況下で本物かどうかが分かるという内容だ。 明確に言うと、イエスがここで比較していることは「福音」と「宗教」の違いだ。
その前の5章から6章に戻ると、「祈り方」や、「貧しい人への施し方」、「断食の仕方」、「献金やお金の投資の仕方」など基本的な事をイエスは教えている。
ここで見てほしいのは、
「祈っている人」 vs 「祈っていない人」、 「他の人々に仕えている人」 vs 「仕えていない人」 「お金を献金・神の国に投資している人」 vs 「献金・投資していない人」と言うリストではないことだ。
むしろ、両者とも祈り、仕え、献金し、同じことをやっている。 でもイエスは言う、やっていることは同じだが、片方は「癒し」で、片方は「毒」だと。 片方は「死」で、片方は「命」だと。 片方は、単なる「宗教」で片方は「福音」だと。
そう、厄介なことは双方ともミニストリーや行動としてしていることや外見の見た目は同じなのだ。
この視点でイエスの教えを読んでいくと、良い意味で怖くなり、本当に自分が試される。
もっと簡単に言うと、多くのクリスチャンが同じ神を信じ、クリスチャンと宣言し、教会に行き、祈り、同じ歌を歌い、伝道し、弟子訓練し、奉仕をし、 メッセージを語り、奇跡を起こしても、それらの影響が、一方は宗教という「毒」、一方は福音という「癒し」なることができてしまうということだ。
この教えは、「はい。ここにあることを単純に頑張ってできるようになり、良いクリスチャンになりましょうね。」ではなく、「これらのことを宗教としてやるのか、福音を基準に行って行くのか、どちらかの生き方かを選べ」というイエスのメッセージだ。
その「怖い」いうのは、本当に福音を知り、そこからクリスチャン人生を生きないと、知らずに俺たちがその毒である「宗教」をしてしまう危険性があるという事。
少しだけ山上の教えから、この見方を適用して、どういう事か見ていきたいと思う。
例えば、マタイ5:13-16では、クリスチャンたちはこの世の塩であり、光だと言っている。
塩の役割は、味をつけるというよりも引き出す役割、また防腐にも役立ち、食べものに着けておけば腐りずらい。でもこの場合、塩が主役ではなく、その食べ物だ。実際、肉などの食材に擦り込ませた場合、塩は目立たない。
これと同じく、本当のクリスチャンの役割は、周りの人々のポテンシャルを引出し、福音によって「味」という価値を引き出してあげ、守ってあげる存在だ。
だが逆に宗教的なクリスチャンは、防腐するどころか、周りを蔑み周りの人々の罪悪感を引出し、塩であるにも関わらず「自分の味」を強調し、他より 「オレ」が優れている、味がある、俺の方が能力があるという態度を取る。「お前は俺より劣っている」ということを言わずとも行動や態度で強調してしまって いる。
「光」でも同じことが言える。光は他のモノを照らすとき、その「色」を表す。対象を温める、植物であれば成長させる要素の一部となる。同じように本当のクリスチャンは光として、他を照らし、その人の特徴という「色」を引出し、暖かく包み込む。
では、宗教的な人はどうだろう?その逆だ。
自分が輝いていることを強調し、自分の色と特徴を強調する。自分が目立つことを動機とし、ミニストリーや伝道で活躍していると、自分が他より優れていると勘違いする。そして他と比較し蔑む。宗教的な人々は、「升の下」に入ってしまい、部外者は押し出してしまう。
このように山上のイエスの教えを読んでいくと、イエスが強調しようとしている、「ハート」の部分が見えてくるはずだ。「形だけをマネするな、パリサ イ人(宗教家たち)を超越しろ。」と言うメッセージだ。「律法を破るのではなく、本当の意味で律法を生きろ」というメッセージだ。
宗教をやっている人は、「自分の為」を軸に良いことし、祈り、聖書を読み、教会に行き、仕える。だから自分の達成や成功を強調し、他と比べ、他を除 外する。福音に生きる人は、内側から溢れる感謝と喜びと、祝福する思いから、祈り、福音とイエスをもっと知るために聖書を読み、受け取るためでなく神を賛 美するために教会に行き、そして他の人の益の為に仕える。宗教をやっている人は、「自分の価値」を得るために良いことをする。でも福音の人は、既に自分に 与えられた「価値」があるから、人々に価値を与えるために仕える。
この間FACEBOOKで、面白い投稿を見た。それは牧師が困る教会メンバーランキングみたいな内容で、その1位は「断食40日間したクリスチャ ン」、2位は「祈祷会で誰よりも祈っているクリスチャン」だそうだ。なぜかと言うと、これらをした人々は、それらを達成した後、牧師や他のクリスチャンを 見下し、「もっと霊的になるべきだと」いう態度を持ち始めてしまうからだそうだ。ある意味、この「宗教」という同じ概念だと思う。彼らは、「自分が神に もっと近づいた」から、「何か成し遂げた」からという、宗教的な動機でそれらをしてしまったからだ。そしてそれらは、周りや自分の祝福となるどころか、 「害」になってしまった。これは伝道や預言、賛美、教会成長というどんなミニストリーでも起こってしまうことだ。祈りを始め、それらの事は決して悪いこと ではなく、むしろ素晴らしいこと。でも「宗教」となった途端、祝福どころか人を傷つける「毒」に変わってしまう。
だからこそ、このイエスの山上の教えは、ただの「HOW TO]のメッセージではない。 むしろ、ここに書かれているリストは「俺たちができないことリスト」だ。
これらを読むたびに、敵を愛せない自分、他人を赦せない自分、心配を止めれない自分、本当の意味で天に宝を蓄えられない自分、そして完全に神様のやり方から外れてしまった自分がもっと明確になっていく。でもこの教えはそれで終わりではない。
この教えのポイントは「福音」というイエスなのだ。俺たちができない代わりに、敵を愛してくれたイエス、赦してくれたイエス、将来の希望と安心を与 えてくれたイエス、本当の意味で俺たち人間という宝を天に蓄えてくれたイエス、そして俺たちの代わりに完全に律法と神様のやり方を全うしてくれたイエス。
それだけじゃない。俺たちの代わりに罰を受けたイエス、苦しめられたイエス、呪われたイエス、すべてを失ったイエス、神様から切り離されたイエス、 そして俺たちの代わりに死んだイエス。でもそのすべてを超え、復活したイエス。そのイエスを受け入れ信じた時、初めて俺たちが自然と心からできるようにな り始める。イエスの力によって。
「福音」は「宗教」を凌駕し、超越し、そして宗教とは全く別物だという事だ。
そしてイエスはこう俺たちに言っていると思う、「死か命、毒か癒し、呪いか祝福、そして宗教か福音、どちらか選びなさい。でもあなた達は、命(福音)を選びなさい」(申命記30:19)。
(マタイ7:22‐23) その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名に よって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者 ども。わたしから離れて行け。』
今日、宗教ではなく、命(福音)を選ぼう。
ではまた次回に。