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教会の正しいあり方

先週香港のカンファレンスから帰ってきた。

学んだことはかなりあるが、今回はその一部をシェアしたいと思う。

ティム・ケラー牧師のメッセージの中で、バランスの取れた教会の在り方を話していた。

今の時代の多くの教会が、大きく分けて二つの面で極端になってしまっているという現実がある。

この世の中では大概、組織やグループと言う存在は2つの形に分けられるという。

まずはMOVEMENTという形。

英語で申し訳ないが、この単語は日本語に的確に訳すのは難しい。 要は「人々が共に起こす変化や革命」と言えるだろう。

この MOVEMENTの特徴は、その名の通り「変化や動き」だ。常に動き、成長し、新しいことに向かい進んで行くグループ。アイデアも特定の人や、リーダーに よるものではなく、組織やグループの人々が積極的に提案し、意見や考えを分かち合い、皆が一緒になって貢献する。ダイナミックに、そして勢いよく拡大して いく。その反面、行き過ぎるとコントロールが利かなくなり、統制も取れずに、消滅する可能性もある。歴史的にも、様々な政治的運動、革命、そしてリバイバ ルという形で起こってきたが、その中の多くが短期的であったり、気づいたらそのグループや組織がなくなっている場合もある。

その対照的となる形が、INSTITUTIONという組織の形だ。

この特徴は、規律、ルール、決まりが明確にあり、固く統制され、コントロールされ る存在だ。TOP DOWNと言うリーダーシップの形で組織され、MOVEMENTとは逆に、変化も遅い。新しいことをするには時間が掛かり、決断も遅いかもしれない。早く 決断ができても、皆の意見ではなく、特定のリーダーの指示と意見だけに掛かってしまう場合がある。また特定のリーダーだけのアイデアに頼るので、 MOVEMENTに比べると想像力がなく、一定のパターンの繰り返しになりやすい。伝統的な組織や教会は、このケースが多いだろう。こちらは行き過ぎる と、カルト化し、特定の人々を除外し、コントロールするような組織になりかねない。

教会は実は、多くの場合、このどちらかに偏ってしまうことが多い。MOVEMENTで始まっても、規律やルールが出来上がると INSTITUTIONになり、階級制度が強いリーダーシップになる場合もある。また一度極端にINSTITUTIONなってしまった組織を変えることは すごく難しい。

ここで疑問。教会はどっちであるべき?

それは両方だという。 MOVEMENTのダイナミックさと柔軟さ、そしてINSTITUTIONの持つ土台と健康的な基準を持つのが教会だという。

使途行伝の最初の方の章(1~3)でそのことが良くわかる。

使途行伝の二章では、神様なダイナミックな働き、そしてペテロの福音のメッセージで多くの人々が心を打たれ、クリスチャンになる決心をする。そこで 一気に3000人ほど集まる。そのレベルに行き着くまでも、イエスによって弟子たちが整えられ、下準備もしっかりとあった。でもここで、イエスが起こした MOVEMENTに神様が更に拡大を起こす。そして歴史上最初の初代教会がエルサレムに生まれる。その教会は12人の弟子たちを中心にリーダーシップと統 制が取られ、またステパノやバルバナなど他のリーダーたちも任命される。まさしくINSTITUTIONとしても確立されていった。その教会はダイナミッ クさと変化を起こしながら、着々と成長していった。しかしここである問題が起こる。教会が「出来上がって」しまったのだ。

思い出して欲しい。弟子たちにイエスが与えたミッションを。 「エルサレムから世界中に出て行き、弟子を作り、洗礼を授け、私の教えたことを教えなさい。」、そう。ミッションに出て行かなければいかなければならなかったのだ。 しかし、教会はエルサレムに落ち着いてしまいかけていた。 ようは、単なるINSTITUTIONとなってしまいかけていた。

教会は大きくなり、リーダーシップと「教会のビジョン」ができ、それを「守る側」に集中し始めた。

そこで神様は、あることを用いる。それはステパノの死とクリスチャンの迫害だった。

エルサレムの教会の人々は、押し出されるように地方へ、 そしてそこらじゅうに散らばって行った。12弟子たちはエルサレムに留まったが、かなりの混乱で崩壊が起き、グループが消滅してしまうかのように思えた。 だが、結果はその逆だった。クリスチャンたちが出て行った先々で、彼らは新しい教会を立て始めた。サマリア、ユダヤそして地の果てまで行くような勢いだっ た。今まで「単なるメンバー」だったクリスチャンたちが、事を起こすリーダーとして必然的に機能していったのだ。これは落ち着こうとしてしまったエルサレ ムの教会にMOVEMENTを起こす神様の計画だった。

そして面白いことに、それぞれの地域で開拓された教会のリーダーたちは、エルサレムに定期的に戻り12弟子たちの助言やアドバイス、そして自分たち の教会の健康度チェックをするようになる。これは、教会がMOVEMENTであると同時に、INSTITUTIONの側面をちゃんと持ち合わせている証拠 だ。彼らは自分たちの、信仰や語っている福音のメッセージ、そして神学がしっかりしているか、イエスに直接任命された12弟子たちとしっかりチェックして いた。開拓は必然的にMOVEMENTを通して起こったが、ちゃんとINSTITUTIONの良い側面である、健康さを守るための境界線はしっかり持って いたのだ。

もちろん教会は完璧ではなかったが、ちゃんと両方の側面を取り戻していった。 教会開拓のビジョンや宣教ミッションは特定のリーダーたちのも のではなかった。このMOVEMENTも12弟子たちが考えたアイデアでなく、むしろ神様自身が大胆に起こしたものだった。むしろINSTITUTION という教会の中で埋もれかけていた人材を、神様が必然的に押し出したとも俺は思う。これは今までの教会の歴史を見ても同じだ。常に教会や宗派が、行き詰っ たときに、改革が起こり、そしてリバイバルが起こされてきた。それは常に痛みや、混乱を伴うことが多くあり、必ずしも平安的な形ではなかった。

俺たち人間の性質は、常にアンバランスだからだ。気を付けないと常に「勝手な自由」というMOVEMENTの極端さ、または「行き過ぎた支配」というINSTITUTIONの極端さのどっちかに傾いてしまう。

教会は特定のリーダーのものではなく、神様が頭であり、そしてイエスのアイデアであるが故に、完全にリーダーたちのコントロールになってしまうこと はかなり危険な事だ。また逆に、リーダーたちが何もしなく、責任を果たさずにいるとしっかりとしたコミュニティもできず、影響力もない存在になってしま う。だからこそ初代教会では、ある特定のリーダーだけではなく、12人と言うイエスの愛と恵みに完全にどっぷり浸かっていたリーダー達、そしてお互いに しっかり意見を言い合えるようなコアがあった。

教会の牧師やリーダーたちはこのバランスをしっかりと持たなくてはならない。人々を責任を持って成長させ、そして彼らが神様によって動かされ旅立っ ていくときには束縛せず、神様の大きな視点から祝福し送り出す。神様が自分の教会の人々を動かすときは、彼らを束縛してもいけない。それがいくら「自分に 与えられたビジョン」とどんなに一致しなくても、祝福して送り出すべきだと、ティム牧師は言っていた。それと同時に、助けを求める人々は受け入れ、しっか りと回復させ立たせてあげるべきだと。自分の教会だけが「神の国」なのではなく、「神の国」の一部として教会があるのだから。自分の教会が唯一だという考 えは驕りだ。

俺が驚いたのは、長老派であるティム牧師の教会が、バプティスト派やペンテコステ派の教会開拓を全力で一緒に開拓している現実だ。もちろんティム牧 師はこれをすることにより、同じ宗派の人間から批判されることもある。でもティム牧師は言っていた、「神様の国でしょ?」と。どんな教会だろうと、しっか り「福音」を語り、「福音」を中心に導き、成長する教会ならサポートするのは当たり前だと言う。

もちろん「みんな全員仲良く」は非現実的だ。すべての教会・団体と共同でやっていくことは難しい。でもこの態度は、クリスチャンリーダーたちが本来 持つべき態度だと思った。自分の教会の「ブランド」などを促進させるのではなく、「神様の国」自体を促進させなければならない。教会は、チェーン店やフラ ンチャイズではないのだから。

ティムの牧師は、「自分の教会を建て上げることだけに100%費やすことはするな」ともアドバイスしていた。同じような考えの牧師とだけ会うのでは なく、他の考え方を持っている牧師や教会と交わるを持つことで、直接目に見える形では自分の教会の益にはならないが、からなずその祝福と思いがけないキッ カケが巡ってくると言っていた。これも牧師が健康的な神様からの自信を持っていないとできないことだと思う。

有名な教会や影響力ある教会が近くに開拓される極度に心配したり、批判したりする牧師やリーダーたちを何人も見てきたが、いつも俺には理解できな かった。むしろ喜ぶべきだといつも思っていた。特にこのクリスチャンが少ない日本で、新しい教会ができることは良いことだろうと思うはずだ。これは教会の 牧師だけの問題ではない。

あるMOVEMENTが起きると、それとは違ったMOVEMENTが彼らを批判することがよくある。「あのクリスチャンたちは、 俺たちの様に伝道しない。」、「あの人たちは社会の福祉に貢献しない。」、「あの人たちは、俺たちの様に常に祈っていない。」、「あの人たちは俺たちの様 に聖書を深く教えない」。

なぜ批判し、自分たちだけが正しいと主張するかが分からない。お互いが学べることを考えないのかと思う。伝道し、祈り、聖書と神学的に健康で、社会のニーズを満たし、社会的に弱い人々、そして蔑まれる人々を助ける存在が教会だろう?

このようなバランスは俺たちクリスチャンの原点である、「福音」に常に立ち戻らないとできないと感じる。福音から少しでも離れると、「自分たちの努 力」に走ってしまうからだ。どれほど自分たちが祈るか、伝道しているか、奉仕しているか、聖書の知識を得ているか、それらのものが福音という「恵み」の代 わりに、自分たちを「正しい」とする基準になってしまう。そうなると「自分が成功としていること」を誇り、他より優れていると思い始め、他を見下し始め る。そして自分たちに同意しない者は悪者や愚者とし、除外する。これでは単なる宗教と何も変わらなくなってしまう。

もう一度、日本の教会は「福音」に戻らないといけない。 教会の1リーダーとして、福音をしっかりどんな時でも語り伝えなくてはと思わされたカンファレンスだった。リーダーたちは人一倍、この分野で責任を問われるからね。

そして個人的にも絶対に福音から来る恵み以外に、自分のアイデンティティーと自信を置いてはいけないとまた一度思わされた。

もっと日本に福音を伝えて行こう!

ではまた。


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