今回アジアの都市やまたヨーロッパで奉仕する中、色々気づかされたことがあった。
それは日本人がどのような国民性を持っていて、またそれらがどのようにキリストが伝える福音を受け取る状態に影響しているかという事だ。
OO+を初めてから、「日本人に福音を理解し、受け取ってもらうにはどのように伝えれば一番効果的か?」をもっと考えるようになった。もちろん今回受けた教会開拓のトレーニングの中でも常に考えながら学んでいた。
トレーニングの中で、シンガポールに行く機会があったが、自分にとってこの都市が一番アジアの中でも行ってみたい場所だった。シンガポールと言えば 良く聞くことが、「きれいな街」だ。ゴミを道端に捨てただけで罰金、電車の中で飲み食いすれば5万以上の罰金。ようはルールで、何とか街をきれいに保とう としている。だが実際行ってみると、確かに「きれい」ではあるが、東京とあまり変わらない、むしろある地域では東京よりひどく汚い場所もあった。
東京に来る多くの外国人からは、「東京の街はすごく清潔だ」と良く聞いていたが、シンガポールや他の大都市と比べるまで。東京がどれほど高い清潔感の水準を保っているか気づかなかった。しかも、シンガポールはルールでそれを保っているが、日本は国民性がそうしている。
今回イタリアや香港を見た時も思った。イタリアは昔あれほどの素晴らしい文化や建造物、芸術というものを生み出していながら、今は国や国民性自体が ドンドン廃れていってしまっているように見えた。レストランではぼったくり、サービスは不親切、運転では危ないくらい自己中。香港もゴミはそこらじゅうに 家庭のゴミを置き去りにして、ゴキブリがうじゃうじゃ道を走っている。別にそれらの国をけなしているつもりはないが、実際にそれが現実だった。
世界の中で他の国に比べ日本という国は、様々な分野でかなりの高い水準を保っている。ビジネスや顧客へサービスと丁寧さ、町の清潔感、親切さ、マ ナー、そして一般的な人々のモラル。国の法律でそうなっているのではなく、なぜか日本人という国民の中に埋め込まれていると感じる。地震や津波の災害時の 日本人の態度とモラルの高さも各国で取り上げられ、また最近のワールドカップでもニュースになったが、日本人だけが観客席からゴミを拾って帰るという事か らも分かるだろう。そして日本人はそれを誇りに思っている。
だが良く考えて見ると、実はそのプライドが、「福音」を受け取ることの妨げにも同時になってしまっていると今回気づかされた。
先ほども言ったが、最近日本人は、自分たちにその高い道徳心(モラル)があることに今まで以上に気付き始めている。そしてそれを素晴らしい国民性と して誇りに思っている。もちろん日本人である俺もその一人だ。でも更にその思いや考えを良く見てみると、「自分たちは良い人間だ」と考えていることにな る。もちろんモラルの基準が高いことは素晴らしいことだ。それは人間が共に生きていくには必要な事であり、共に住む上で素晴らしいことだ。聖書を始め、 様々な宗教の書物や書物でも常に道徳心を持つことを強調している。俺自身、日本人にそれを無くしては欲しくない。
でも問題は、そこにあるプライドと「宗教心」だ。
日本は昔から、「人生で良い行いをしていれば天国に、悪いことをしてきた人は地獄に行く」 という考えがあった。これだけが理由ではないが、そのため日本人は、「人様の前で良い人間」になる努力をどの国民よりも努力してきた。「人様に迷惑をかけ ないよう生きなさい」と特に俺たちの世代の前の人々も常に親や爺ちゃん・お婆ちゃんに言われて来ただろう。商売でも、「お客様は神様」と言い、サービス精 神を高めてきた。常に世間でも良い評判を気にして、良い学校・大学・就職へと努力する日本人。そしてその結果が今の日本人の国民性だ。それと共に日本人が 考え始めたのは、「自分は他より良い人間」または「私は悪い人間ではない」という事だ。
でもここでイエスが伝える「福音」を受け取る際に、躓きになってしまう。
「私は既に良い人間」=「救いは必要ない」という事になってしまう。 日本人が「罪からの救い」を聞くと、「なぜ?」となる。 「え?良い人間である私たちになぜ救いが必要なの?」と。
そ してイエスの十字架と死からの復活の意味がよく理解できない。神学的や哲学的に理解できても、福音が実際にどう自分の心に適用し、人生を変え、自分が人間 として変わるのかが理解できないのだ。日本人として俺もそうだった。本当に自分がどうしようもない人間だと分かるまでは・・・。 そして日本人は世界の中でも特に、「自分は大丈夫だ。良い人間だ」という自覚が強い。
聖書では、人間は全て「神様の基準」に達することができなく、皆が罪人だと。 でも本当にこの事実を俺たちは理解しているだろうか?
もっとこの真実を深く掘って考えて見るとこのように言える、それは“誰も「ヒットラー」や「大量虐殺してきたテロリスト」に対してですら、「俺はお前らよりもましだ」と言えないという事だ。”
ある人はこういうかもしれない、「でも俺は人を殺してない」と。 でもイエスはマタイの書でこういう、「もしお前たちが、他の人に対してバカ と言っただけでも、その人を心の中で殺していると同じだ」と。このイエスが使う「バカ」という本来の意味は、「人を無視する、または価値がないとする」と いう意味だ。もしこれが神の基準なら、俺たちは既に何度も人を拒絶し、無視し、その人々を価値がないとする度に「人を殺している」ことになる。すでに十戒 のかなりシビアな律法を破っているわけだ。どんな人間でもね。 そしてそれ以前に、嘘をつき、他のモノを神々として生きている。もうフルスロットルで十戒全部破っている。もし俺たちクリスチャンですら、モラルや生き方で他人に勝っている、「アイツよりもマシだ」と思っているなら、福音を全く理解してない証拠だ。
今でもそうだが昔の日本の多くの小説作家達ですら人間のどうしようもないドロドロとした性質には気づいていた。作家という職業は、人間性をトコトン 追求するが上に、人間が本来持っている悪や心の闇を深く知ってしまう。それを知ってしまうが故に、絶望や鬱に追い込まれ自殺する作家も多い。多くの作家が 様々な書物を読む中で、聖書を読む者も多い。中には聖書を読み、聖書の真実を知り福音を受け取る者もいるが、中には聖書が示す神のモラルの基準の高さに自 分たち人間の足りなさに気付き、逆に絶望する者もいる。それは聖書が一番強調するイエスの恵みと福音を理解せずに読んでしまっている結果だ。
確実かどうかは分からないが、夏目漱石が聖書を読んだ後に、自殺をしそうになったとも聞いたことがある。彼もまた「イエスなし」で聖書を理解しようとしたかもしれない。聖書の道徳の教えがイエスなしでは、彼には重すぎたのだ。
聖書はある意味危険な書物だ。イエスの山上での教えを見ても分かるが、神が俺たちに求めている基準はとてつもなく高い。ハッキリ言うが、その基準を 俺たちの努力で達成することは無理だ。「目が罪を犯すのなら、その目を取ってしまえ、手が罪を犯すのならその手を切り落としてしまえ」、「敵を愛せ、自分 がしてほしいと思うように他人にそのように接してなさい」。これらはイエスが教えるモラルの一部の基準だ。だが、誰が一体このすべてを100%こなしてき ただろう?誰もいない。
でもここが聖書そしてイエスの教えの重要なポイントだ。イエス本人以外に、この「基準」で生きた者はいないという事だ。前にも書いたが、イエスのモ ラルの教えは、「できないことリスト」だ。そして聖書の福音のメッセージは、だからそれを唯一した、神であり同時に人間であったイエスを信じ、共に生きる ことにより、それらを可能にしていけるという事だ。それだけでなく、俺たちがしてきたすべての過ちや悪をイエス自身が十字架で背負い、その死からよみがえ ることにより、俺たちを救い出しそして新たなスタートを与えてくれる。「人を殺してきた」俺たち人間を赦し変えてくれる。それは一方的な恵みであり、愛 だ。
もし俺たち日本人が、「俺はまだマシな(良い)人間だ」という事を信じつづけるなら、イエスの福音は完全には心に届かないだろう。そして聖書が言わんとしていることを理解するのは難しいだろう。もっと踏み込むと、日本人は誰よりも「宗教的」だということだ。 「誰よりも自分の努力で良い人間になろうとしている」=「誰よりも宗教的」なのだ。 宗教=自分の働きで自分を救う・神に近づくだからだ。 一番宗教を嫌う日本人が一番宗教的というのは皮肉的だ。 でも俺たちはそれに気づかなくてはならない。
だから一番宗教的にキリスト教をしてきた日本人クリスチャンが、挫折してしまった時一番落ち込むこともある意味理解できる。必死に教会に行き、聖書 を読み、そして仕えて来たクリスチャンがある日、教会やまたは同じ信者に躓いたり、または気づ付けられることは正解中でも良くある。そして日本では特に、 この状態で長期に落ち込み挫折するクリスチャンが多いように感じる。これも日本人が人一倍自分の道徳心が高いからだ。一生懸命仕え、信じて来た者が躓いた 時、相手を責めることもするが、それ以上に自分自身を赦せないケースが多い。強いクリスチャンでいられなかった自分、教会や奉仕に忠実になれなかった自 分、牧師や他の仲間を失望させた自分が赦せないのだ。それは自分の努力でしてきたからだ。
または最悪のケース、神様に文句を言い始める。「俺はこれほど仕えて来たのに」、「これほど教会に尽くしてきたのに」、「なぜ祝福されない?」、「なんだこの仕打ちは?」。放蕩息子の話の兄の態度だ。
でも本当の福音を理解している時、このどちらからも解放される。
福音よって生きて来たクリスチャンは、自分の努力中心で仕えて来た思いは少ないが故に、神様が自分に対して貸しがあるとは思わない。「仕えるから祝福される」とは基本的に思わず、感謝の気持ちから仕えたいから仕えることができる。
逆に失望や挫折した時も、自分の努力中心ではないために、自分を責める必要もない。別に教会や牧師に貸しがある、または他を失望させたと他人の目を 気にしたり思わなくて良くなる。正しい時に、神様が動かしてくれるように決断し、必要な時に強い決断を自信を持って決め、また耐え忍ぶ時期であれば自信を 持って仕えることができる。
日本人はクリスチャンであっても無くても、今一度、「福音」を見直す必要があると思う。
日本人に必要なのは、 「自分をもっと良い態度で、もっと良い人間になりましょう。 良い仕事をもらいましょう。 素晴らしいパートナー神様に与えてもらいましょう。 良い結婚生活を持ちましょう。 そしてもっと成功しましょう。」を教える宗教ではない。
それらは素晴らしいことであり、もちろん正しいクリスチャン生活を生きる上で結果的に受け取ることかもしれない。でもそれら自体が、福音(良い知らせ)になってしまったらそれはもはやキリストから離れた全く別の宗教だ。
もし結婚できなかったら? もし成功できなかったら? もし結婚生活がうまくいかなかったら? もし思っている以上に良い人間になれなかったら?
「自分の人生でそれが機能」するからクリスチャンになったのだろうか? それとも「イエスが真実」だから信じ、神について行く決断をしたのか? キリスト教は、ハッピーになれるからクリスチャンになるものではない。
成功できるからでもない、むしろもっと苦しむ時もあり、困難や現実に立ち向かわなければならいだろう。この世の中の偽りに対抗して生きているのだから。 「自 分の人生で機能するから」と理由だったら、真実は失われてしまう。要は機能するなら何でもよくなるからだ。お金が機能するならそれで良くなってしまう。悪 の宗教がその人にとって機能するならそれでよくなってしまう。キリストを真実時、それが絶対なる真実であるから受け入れるべきだと俺は思う。それによって 世の中の視点から人生が良くなろうが悪くなろうが。
宗教をやっている状態だったらそれらの状況にぶつかった時、キリストを捨て、教会に通う事を止めてしまうだろう。でも本当に福音によって感動させら れ動かされて生きているクリスチャンたちは、キリストにあって強く生きていくだろう。また新たに正しい教会をまた見つけ、仲間を見つけ、また新たなビジョ ンを持ち、ただ傷つけられたからとって挫折するどころか、困難によってもっと強くなっていくだろう。それが聖書の話に出てくる神を信じる人々が生きた生き 様だったからだ。
日本に本当の福音を伝えたい。
ではまた。