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Vision


皆さん。明けましておめでとう! 今年もブログの方も頑張っていきたいのでよろしく~!。

今回はちょっぴり「長め」です(笑)

新年と言えば、「新しい始まり」ということで、今年の抱負やビジョンなど、色々達成したいこと、新しく変えたいことなど考えているんじゃないかな?また多くの教会でもビジョンについてメッセージでも話していることでしょう。

でも牧師として人生のビジョンや目的を人々に語る時、いつも教会で感じるのが皆のなかにある「混乱」だ。

「ビジョン」という言葉を聞くとあ まりにも漠然としていて、多くの人たちは「私のビジョンは?」、「何をしたらいいの?」、「自分の使命は?」と考える。クリスチャンならなおさら「この自 分のビジョンや思いは神様のもの?それとも自分の勝手な思い?」と考えて疑ってしまう。何を基準に、どう正しいビジョンを判断したらいいのかが分からな い。そしてビジョンについてのメッセージや教えを聞いても毎回様々な見方、またはただのビジネス的な感覚でしかビジョンを教えてくれない場合があるので余 計な混乱する場合も多い。基本的に世の中が言う「ビジョン」と神様が言う「計画」には決定的な違いがある。全く違う視点と土台から「ビジョン」というもの を見ているからだ。

なので今回は聖書的に「ビジョン」とは何か、そしてそれを基準にどう自分たちの人生を組み立て決断し生きていけばよいのかをできるだけ明確にしたいと思う。

まず最初に言いたいことは、聖書は神様の思いやビジョンを超明確に示しているということだ。例えば、マタイの書22:36-39、

「先 生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」 (37) そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』(38) これがたいせつな第一の戒めです。(39) 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

これは何度も福音書で出てくる内容だが、これは宗教家たちがイエスの下にやってきて質問した内容だ。この宗教家たちは「モーゼの律法の専門家」でイ エスを試すためにこの質問をした。そこでイエスは簡単にすべての律法の目的をまとめたのだ。要は、「神を愛すること、人々を愛すること」、これらが神が俺 たちに求めることだと。 すごく簡単なことだと思えるが、実はそう簡単にこなせるものではない。なぜなら、もし俺たち人間がこれらを楽に実 行できていたらイエスが地上にやってくる必要はなかったからね。この箇所をちゃんと理解するには、ある程度「モーゼの律法」を理解する必要があるので、そ こから見ていきたい。

まず「モーゼの律法」なので、モーゼの話が出てくる「出エジプト記」や「レビ記、申命記」などを思い出してほしい。このブログだけでは全部これらの書の内容を説明することはできないので、今回は簡単にまとめよう。

モーゼの律法は基本的に、「十戒」から始まる。神様がエジプトから神とモーゼによって救出されたイスラエルの民に与えられた「ルール」だ。ここで理 解してほしいのは、これらのルールは彼らが「救われるため」に与えられたのではなく、「神の民」として正しい人間関係とコミュニティーを作るためのもの だったということだ。なぜなら彼らこのルールを受け取った時は、もう既に神によってエジプトの奴隷下から救われ解放された状態だったからだ。しかも一方的 な神の恵みと愛によって。以前にも「イエスの山上の教え」の内容でブログでも触れたので関連性についてはそちらを参考にしてほしい。後で説明するが、この 理解はすごく重要だ。

このルールを民に与えた時に、神が強調したことが2つある。それは「神が愛と恵みのゆえにイスラエルを救ったということを思い出して神を愛すること」、そして「人々を愛し、貧しい者もやもめも外国人も公平にすべての人々を守り接すること」だった。

もっと簡単に言うと、「神様のしてくれたことを思い出しながら神を感謝して愛し、人々を愛して素晴らしい神のコミュニティーを作る」ことだったとい うことだ。「十戒」を見てもわかると思うが、最初の3つの命令は神を愛することに関しての内容、そしてその残り7つは人々への接し方やコミュニティーにつ いてだ。

究極的には、これが神が俺たちに求めるものであり「ビジョン」そのものそし、すべての計画の最終ゴールだ。これらがクリスチャンのすべてのビジョン の土台となるべきであり、それ以外の俺たちの思いや願望、計画やゴールがすべてこの2つの神のビジョンに繋がっているかを常に確認しなくてはならないとい うことだ。でもその「ちゃんと神様のビジョンに繋がっているかの判断」がすごく気を付けないといけないことであり、俺たちが間違えやすいところだ。

それは反面教師である、先ほどの「宗教家やパリサイ人の間違い」から学べることができる。思い出してほしい、彼らは通称「律法のエキスパート」だっ たのに、完全に神様のビジョンを分かっているはずの人々だったのに完全に神様のビジョンから外れていたことを。なぜそうなってしまったのか?これもすごく イスラエルの民とモーゼの壮大なストーリーと関係している。

まず彼らの究極的な問題は、「自分たちの努力」でその2つの神のビジョンを成し遂げようとしたことだ。神様がまず強調したかったのは、「神様の愛と 恵みを思い起こせ」だった。それだけは子孫にも伝えて記念碑を建て、祭りをして思い出せとイスラエルに強く教えた。現代のクリスチャンが行う聖餐式や教会 の礼拝の目的も究極的には神のしたこと(福音)を思い出し賛美することにある。でもイスラエルの問題は、すぐにそれを忘れて「自分達で作り上げた神(最初 は金の牛)を祭り、自分達でコミュニティー(宗教)を作ろうとした」ことだった。

パリサイ人達はもっと厄介で、イスラエルの民がそうならないように神が与えた律法を逆に利用して、「俺たちは誰よりも律法を守り神を愛し従ってい る」と言いながら、「神が恵みによりしてくれたこと」ではなく、自分の努力で築き上げた「義」を基準にそれを押し付け、できない人々をさげすまし、そして 余計なルールで固めた超厄介なカルト集団にまで作ってしまった。表向きではすべて「律法」を守っている良いクリスチャンであるかのように見せ、中身の目的 はすべて自分たちの地位や名声、そして願望を叶えるためにルールを作り利用した。これにはイエスもめちゃくちゃ怒っていた。でも怖いのが、実は俺たちも知 らずにその方向に向かって行ってしまう傾向にあるということだ。

ある人はクリスチャンとして教会に行って聖書を毎日読んでいるかもしれない、奉仕して仕えているかもしれない。

結婚して旦那と妻と一緒に神に仕えたいという願望があるかも知れない。ビジネスで成功してお金やリソースを通して神に仕えたいかもしれない。 また牧師になり「献身」して神に仕えたいという願望があるかも知れない。 これらはすべて素晴らしいことだ。

でもここで重要な質問は、「何のために?」だ。

教会に行って毎日聖書を読むのは、そうしないとクリスチャンとして「ちゃんと生きていない」という罪悪感に襲われるから? 仕えていないと、周りのクリスチャンに忠実でないと思われるから?

結婚しないと幸せになれない、愛してくれる人がいないと不安だから?子供ができ家族を作れないと孤独だから?または惨めになるから? 成功してお金を持っていないと、クリスチャンとして自分の為に自由に使えるお金が無くなるから? 牧師や献身者になることで、自分の存在意義と使命を達成しているという「自分の存在意義」が持てるから?

もしこれらの理由付けが俺たちの心の奥底にあるのなら俺たちは「宗教家」たちと全く同じことをしているに過ぎない。結局それらのものを使って自分の 力で自信、アイデンティティー、罪悪感の解決、幸せを得ようとしているに過ぎないからだ。機能的にそれらが自分の救いとなっていることになり、それらがな いと生きていけない幸せになれない、自分が形成されないと言わずとも行動で示していることになる。でも本当にクリスチャンならイエスと福音によって、生ま れ変わり、神の子供とされ、罪悪感の代わりに喜びも与えられ、罪を赦され、義ですら与えられたんじゃなか?

実はパリサイ人たちですら、すべての「クリスチャン的」なことはしていた。自分たちの弟子も作り伝道し、集会を作っていた。ある時イエスはこう言っ ていた、「彼らは一人の弟子を作くるために海や地を超え、見つけたらもっと酷い状態にしてしまう」(マタイ23:15)と。彼らは奇跡を行い伝道をして貧 しい人々を助けているつもりでも、イエスは彼らを知らないとまで言い張った。なぜだろう?ビジョンと目的に向かう行動が間違っていたのか?違う。それは彼 らの動機と心が自分の利益にあり、救いは神ではなく、自分の努力と行動によって得ようとしていたからだ。

俺自身も常にこのような誘惑には気をつけなくてはけない。教会を任されている牧師の一人として、気を付けなければ「イエスの弟子」ではなく、「自分 の弟子」を作ってしまうこともできてしまう。自分の自我を形成するために、教会を建てようとすることもできてしまう。自分がすごい牧師やリーダーと思われ るために、または自分が理想とするグループを作るために。更には「教会のビジョンに合う弟子」ということにもなってしまう。常に俺たちが作っていかなくて はいけないのは、「イエスの弟子」あり特定の教会だけで通用するようなリーダーや牧師を育てることではないことを俺自身が思い出さなければならない。アポ ロの弟子やパウロの弟子でないように(1コリント1:12)。俺自身究極的には、10年後牧師でなくなろうとも、「神を愛し、人々を愛する」という神のビ ジョンだけは決して変わらないことを自覚し、必要であればそのビジョンの為に今ある仕事や教会をいつでも神がそうしろという時にできる状態でなければいけ ない。それと同時に任せれている間は、全力で自分の人生を使う覚悟も必要だ。

先ほどにも言ったように、仕事、成功、結婚、奉仕などそれらは悪いものではない。でも本当の俺たちの問題は、「神の為に良いことができているかどうか」ではなく、「良いことですら自分の神の代わりとなってしまっている」ことだ。その良い行いが機能的に自分を満たす偶像と なった時、「神を第一に心を尽くして愛すること」が失われてしまう。そうなると、すべての行動が自分の心の奥底の願望やニーズ満たし、存在意義を形成する ために行動し始めるので、自然に2番目の本当の意味で「人々を愛すること」もできなくなっている。友情、教会、仕えることも仕事も自分を形成するためにな る。結婚も本来は「愛と自分自身を与え合う」もののはずなのに、自分の利益の為に、相手の愛を求め始めてしまう。そうなると神が定めた本来の結婚するも目 的も履き違え、相手に間違った自分の願望を求め始め、間違った理由でパートナーを判断してしまう。「神を第一に愛する」がずれてしまうことで、すべてがズ レて行くのは分かってもらえただろうか?

じゃなぜ俺たち人間はそう簡単にズレて行ってしまうのか? どうしたらこの連鎖を止められるのか?

それは今も昔もモーゼの時代も同じ解決法しかない。 先ほども書いたが、「神がしたことを思い出す」ことが鍵だ。 イスラエルに神がまずしてほしかったのは、神の救いと恵みと愛に感謝することだった。 約束の地に向かう道中も安息の地に住み始めても、それだけは忘れてほしくなかった。 こ れと同じように、神がイエスを信じる者に求めていることは、「福音」を常に見つめ、思い出し、感動し心打たれ、そして感謝して神を愛し生きることだ。イエ スが俺たちの為にしたこと、十字架の死と復活により罪が赦されたという「良い知らせ」が救いとなり、ビジョンへの道しるべだ。イエスが道であり、真実であ り、そして命そのものであり、ビジョンそのものだ。

なぜなら、俺たち人間みんな、神の2つの究極な目的である「神を愛すること人々を愛すること」を達成できなかったからだ。 唯一、それを成し遂げたのは人類でたった一人、イエス・キリスト。

そのイエスを信じ頼ることで、初めて俺たちは神のビジョン達成に向かい始めることができる。その土台の上に、人生を建てるときに、本来するべき仕事も、作る人間関係も教会もコミュニティーも正しい方向に正しい基準で築き上げることができると確信する。

パリサイ人や宗教家たちの問題は、それを自分で達成できると思っていたことだ。だからイエスが来た理由も理解できず、毎日聖書を読んでいながらも、律法を研究しながらも、神のビジョンに従っていると自覚しながらも、実は神の本当の計画が分からなかった。

イエスは面白いことに彼らにこう言った、「お前たちは永遠の命を求め聖書を調べているが、聖書は私について証しているいるのだ。でもお前たちは命を得るために、私のもとに来ようともしない。」(ヨハネ5:39-40)

同じように俺たちの致命的な問題は、永遠の命、幸せ、成功、満たし、愛を求めてクリスチャンになり、聖書を読んで頑張るが、一番大切なイエスを置い てきてしまうことだ。イエスは真実を見せるために来たのではない、神への道を教えに来たのではない、ただ幸せと人生をあたえにきたのではない。イエスはそ んな、宗教の先生だけという存在ではない。イエス自身が、真理であり、道でありそして命だということを忘れないでほしい。俺たちにとってイエス単なる良い 先生になってしまった時、ビジョンを「自分で達成できる」という自負に変わってしまう。そして表面ではイエスを信じ救いを受けた思い振る舞っていても、心 では自分の力で聖書の言っていることを忠実に守ることで、「良いクリスチャン」になろうとしているなら、それは単なる宗教に逆戻りになる。そして守れてい ない時は罪悪感を感じて落ち込み、守れているときは高飛車になり他を見下すような、献身度も感情的にもUPとDOWNが激しいクリスチャンにしかならない だろう。

今年の初めにイエスを、福音を思い出してほしい。 そして、すべての自分がすること、仕事も人間関係も奉仕も、「神を愛すること、人々を愛すること」に繋がっているかどうか確かめてほしい。

その上で、することすべてが祝福される2015年になるように祈っている!

今年もよろしく!

ではまた。


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