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使命を受け取ることの重大さ


先週はアブラハムの人生から、「使命」の重要さについてメッセージをした。 使命は英語では、「Calling 呼ばれる」が一番近い訳かもしれない。 世 の中の人々は、自分の生きる理由や価値、そして自分の存在意義を、様々なことから見出そうとして来た。侍の時代や戦争が多かった時代は、「生き様」や「役 目(Duty)」、一昔は、「社会的地位」や「裕福さ」、現代は「自分で自分の価値を決めろ」が中心であり、「自分のビジョン」、「スタイル」、「スキル やタレント」、「宗教」、「地位や権力」、「成功」など様々なところから、個々に目的や意義を見つけようと生きている。ある意味、形上の「自由」があるが 故に、人生の生きる理由を見つけることは、昔よりもっと困難で難しいかもしれない。

そしてアブラハムの時代の人々も、ある特定の「価値観」を元に生きていた。彼らにとって重要だったのは、「家族と子孫たち」、「広大な土地の所有」、「奴隷と働き人たち」と、これらをどれほど多く所有しているかを重んじ、それらが人の人生に価値あるものとして考えていた。

そんな世の中で、アブラハムは他の人間の生き方と比べて、特にユニークで冒険的な人生を生きた。アブラハムはある特定の場所には住まず、常に神様の 目的へ向かいて動く人生だった。それでも彼の所有していたものは他の誰よりも多く祝福されていた。ようは世の中が重視していたもの為には生きなくても、祝 福され神の使命を全うした。そして、現代の3大宗教が彼の人生から学ぶような、歴史的人物になっていった。彼はとにかくデカい人生を生き、そしてBIG DADDYになっていった。

アブラハムにそのような「人生を生きさせた」ものは、「神からの使命(Calling from God)だった。そう、クリスチャンにとって生きる目的や基準は、世の中や社会とは全く異なるものだ。今回はこの神様からの使命は何なのかを見ていきたい。

神様の使命は完全に「恵み」によるもの。 まずアブラハムの家系やバックグラウンドを見てみたい。 彼の家族は代々、「本当の 神」を崇めてきた家系だった。アダムから始まり、そしてセスに至り、そしてアブラハムの父親はテラだった。この時ではこの地球上で最後の「クリスチャン家 族」だった。その責任は重要で、必ず子孫をしっかり残し、後世に神様の存在とその生き方を伝えて行かなければならなかった。だが、ここで問題が起きる。セ スの後から、その家系は「他の神々(偶像)」を崇拝し始めたのだ。しかもアブラハムの父親の名前はテラ「月」と言う意味で、月を崇める宗教に入ってしまっ ていた(ヨシュア24:2参照)。その当時、一般的な信仰の対象は、「創造主」ではなく「創造物(造られたもの)」を崇めるのが他の国や人種の宗教だっ た。太陽、大地、海などだ。この辺りは、仏像や地蔵、山の神などと言った日本の宗教も似ているだろう。

要は、唯一、全知全能の創造主である神を崇めていた最後の希望である家系が無くなろうとしていたのだ。

しかももっと絶望的なのは、アブラハムの 妻、サラが不妊だったことだ。霊的にも、そして身体的にも希望は消えかけていた。そんな絶望的な時に、その「神様からの使命(Calling)」がアブラ ハムにやってくる。

「あなたは国を出て、親族から離れ、父の家を離れ、私が示す地に旅立て。あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。そしてあなたは他の人々の祝福となるだろう・・・。」 (創世記12:1-5)

この時、アブラハムは別に何も特別な存在ではなかった。彼の家族は、「造られたもの」を崇めていたバックスライド・クリスチャン。そんな環境で育っ たので、神様の為に生きていたわけでもなく、大きな使命感を持っていたわけでもなかった。ただ世の中に流されて生きていた、「なんちゃってクリスチャン」 だ。

ここで分かることは、「神様の使命」は俺たちにその「資格」があるから受け取れるものではなく。逆にその使命が俺たちに「資格」を与えてくれるとい うことだ。それは完全に恵みであり、むしろ絶望的な時にやって来るものだ。そしてその目的も自分たちの成功のためでもなく、完全に神の計画と目的の為だ。

これは俺たちの人生でも同じだ。クリスチャンの家庭で育とうが、また世の中の家庭で育とうが、バックグラウンドは関係ない。結局、その一人ひとりが個人的に神様のCALLINGを受け取らなければ、何も始まらないのだ。 勘 違いしないでほしいのは、別にクリスチャンの環境という家庭が悪いと言っているわけではない。俺には2人子供がいるが、もちろん聖書に従った育て方をし、 神様の存在を教え、神との関係を持ち成長するように全力を尽くしている。それでももし彼女たちが、自分で信仰を確信し、個人的に神との使命と歩みを受け取 らなければ、結局クリスチャンと言う宗教をしながら、自分の「キャリア」や「結婚相手・家族という幸せ」など「造られたもの」を崇めると対象として生きて しまう。「神様からの使命」を個人的に受け取ることは、しっかりとしたクリスチャン人生にとって絶対必要不可欠なものなのだ。

次にこの使命は、絶対的に神様に頼らなければいけないという事だ。

ここで神様がアブラハムに言ったことに注目してほしい。 簡単に言うと、「とにかく自分の今いる環境から離れて、出て行け」だ。 実際に「どこに行け」という指示もない。GPSのロケーションや地図もくれない。

アブラハムの人生は常にこんな感じだった。

神様:「旅立て。」 アブラハム:「どこへ?」 神様:「後で分かる。」

神様:「息子を与えよう。」 アブラハム:「え?どうやって?もう90歳ですけど??しかも奥さんは不妊ですが?」 神様:「後で分かる。」

神様:「唯一の息子を殺し、私に捧げなさい・・・。」 アブラハム:「なんで?子孫を与えるという約束は??」 神様:「後で分かる。」

正直に言うと、これがクリスチャンの人生だ。

一見リスクもあり、恐れもある。でも絶対的な守りと、約束、希望、そして世の中の基準とは違う、ドデカい未来と祝福がある生き方だ。

昔から俺は、メッセージなどでビジョンや人生の目的を話すことが好きだった。すごく興味深いテーマだし、人々の人生のビジョンを見出してあげること もすごく意義あることだと思っていた。でもある時、これはある意味凄く危険な事だと気づいた。俺たちは「自分の使命」そして「自分のビジョン」の詳細にこ だわり過ぎてしまうからだ。「夢を持て」、「ビジョンを持て」と掻き立てても、結局「自分の為」だけのビジョンや夢になりかねないのだ。いくらビジョンが あって、情熱とやる気とスキルがあっても、必ずしも神様の使命を生きているかというと、実際はそれから遠く離れていることがある。結局、世の中の人と同じ く、自分で自分自身の価値を決めているに過ぎない。

アブラハムの人生の行き先は常に明確だったわけではない。もちろん「大きな全体像」は与えられていた、「息子が生まれ、子孫が多くなり、そして広大 な土地を所有し、そして人々の祝福になれる」。でも「それがいつ、どこで、どのようにして」までは分からなかった。なぜならアブラハムの使命は、それらを 得ることではなく、「神を信頼する」こと自体が

使命だったからだ。「神そのものがお前の報酬」だとも、神はアブラハムに言った。

俺たちは神を信頼することを忘れると、このように神に問いかけてしまう。

「どこに行けば良いですか?それが分かれば従います。」 「どのような仕事をすれば良いですか?そしたらその収入で教会や宣教に献金します。」 「誰と結婚すればいいですか?結婚したらあなたに仕えます。」

実は、アブラハムは神が約束したことすべてを受け取ったわけではなかった。それは後の子孫から生まれたイエス・キリストを通して成就される。でも常に希望と信仰は神にあった。

ティム・ケラーと言う牧師は、クリスチャンの人生は「アドベンチャー」ではなく、「クエスト」だという。アドベンチャーは、現実の生活から離れ「冒 険」をして帰ってきて、元の生活に戻るがクエストは違う。クエストは一度旅立ったら、2度と帰ってこない。むしろ帰ってきても、その経験と生き方から全く 違う自分と言う存在になり、元の生活には戻れない。例えると、アドベンチャーは、「ピーターパン」や「不思議の国のアリス」だが、クエストは「LORD OF THE RING」かもしれない。クリスチャンの人生は、神様の使命を受け取った瞬間にすべてが変わってしまう。今までの価値観が覆され、存在意義が変わ る。2度と同じ人間には戻らない。神様の愛と恵みによって、本当の自分と使命を見出すからだ。

次の「使命」の側面は、「自分の為の祝福が軸ではなく、他の人々への祝福が中心」だということ。

神様がアブラハムを祝福したのは、彼を通じて他の国や人々が祝福されるためだった。自分の祝福と成功が目的ではなかったのだ。だが多くの現代のクリスチャンの人生の決断の基準を見てみると、この基準からずれているようにも感じる。

どこに住もうかと言う選択に対しても、どんな仕事を選ぶに関しても、誰と接することに関しても、誰と結婚するに関してもすべて自分中心の「自分がやりたいこと」の様に感じる。

どの町に住むのが心地よいか?どの仕事が一番稼げるか?誰と結婚するのが一番幸せになるか?どの教会が一番自分に合うか?

別にこれらの事は悪いことではない。でもそれらは使命そのものであってはならない。それらは使命に向かって生きる時、必要に応じて神に与えられるも のだ。もしこれらの基準に従って決断していたら、俺自身はまだスイスに住んでいたかもしれない。スイスの方が心地よく、給料も良いからね。別にスイスに住 むことが悪いわけでもない。でも最大限に他の人々の祝福にはなっていないだろう。

使命を生きる上では、自分と言う存在が一番「他に取って祝福となる」場所や環境を基準に選ぶという事が大切だという事だ。自分中心に考えているのなら、いつまで経っても神には本当の意味で用いられないと感じる。

クリスチャンでありながら、仕事と言うキャリアや結婚と言う理想、また自分自身の容貌や人々からの人気度などが優先であり、または自分の幸せ度と心 地よさが自分の存在を満たすものであるかぎり、「神様の使命」にまだ生きていない証拠だ。アブラハムの父親テラの「造られた物」の偶像礼拝と何も変わらな い。福音を忘れしまい、恵みに中で生きていないという事だ。結局自分の存在意義を神様以外のものから見つけようとしているに過ぎない。ミニストリーや牧師 と言う仕事ですら、その偶像になりかねない。当時の宗教家の様に自分の宗教(努力して神に認めてもらうこと)をし、自分で自分の救世主になろうとしている だけだ。イエスの福音を受け取るということは、それらの基準がすべてひっくり返り、神様の愛と恵みに基準が変わることだ。

最後に、「じゃ、どうやってアブラハムのようなデカい人生を生きることができる?」かを見たい。それは、最初に言った。「恵み」が鍵だ。それは努力して掴むものではなく、「やってくる」ものだ。イエスに完全に頼り、恵みを理解するときそれは始まる。 アブラハムにとって、すべての約束は、「息子が生まれるかどうか」に掛かっていた。息子が生まれなければ、子孫もなく、そして土地を所有しても何も意味がない。何十年も常に「息子」に希望をおき、神を信頼して生きていた。これは俺たちも同じだ。

唯一の神の「息子」、イエスに常に信仰と信頼をおいて生き続けなければ、このクエストを達成することは決してできない。神の子イエスがすべての鍵だ。

一旦、自分の願い、夢、ビジョン、野望を置いてみてほしい。それらが神様よりも、人生の原動力になってしまっていないだろうか? 俺たちが神様に完全に頼れるようになるまで、神様は俺たちの人生の様々な事を変え動かし、レッスンをしていくだろう。

アブラハムの様に、デカい人生を生きよう!

ではまた。


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