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赦される罪と赦されない罪?


引き続き、「悔い改める」ことの必要性とライフスタイルについて書いていきたいと思います。皆さんがクリスチャンとしてしばらく生きているなら、「聖霊に対する罪・冒涜(」という表現はご存知かと思います。

(マルコ3:28-29) よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。

え?でも悔い改める概念とどう関係があるの?と思うかもしれませんが、実はかなり深く繋がっています。

多くの場合、 この聖書箇所を私たちが読むとき、「では聖霊に対する罪はなんだろう?」とある特定の赦されない罪があると思い、その特定の罪は何かと考えます。でも今日 はここでイエスは何を言わんとしたのかを見ていきたいと思います。その結果、悔い改める事と関係していることが分かると思います。

まず理解しなければならないのは、イエスは両方の極端な真実を矛盾しているかのように意図的に言っていることです。この矛盾する両極端の真実を伝えるコミュニケーションは良く昔の学者たちが用いていた方法でした。それをすることにより読者や聞き手に考えさせるためです。

ま ずイエスが言う片方の真実は、「どんな罪でも赦される」です。日本語訳では分かりずらいですが(英語が分かる人は英語で読むことをお勧めします)、「人の 子」に対する罪ならどんな罪でも赦されるとしています。この「人の子」の概念は、ダニエル書7章に出てくる人物のことです。「人の子」は簡単に言うと、最 も高貴な聖人の中の聖人であり、神がこの世の終わりにすべての権限・権威を与えるという最高の支配者であり王のことです。要はイエス自身のことですが、良 く考えてみるとこの発言はとてつもない事です。その当時、「王」はどの国でもある意味恐ろしい存在でした。エステル記やダニエル書でも描かれているよう に、王に対する侮辱や、命令に少しでも逆らうことは、死または永遠の追放の罰に値することでした。でもここでイエスが言うのは、最も最高で高貴な神である イエスという王に対するどんな侮辱や罪は、すべて赦してくれると言っています。それがどれ程寛大で、素晴らしい事なのか、「王」という存在を一般的に知ら ない現代人にとっては理解が難しいかもしれません。要は神はどんな罪も赦してくれると言っています。

でもそれとは対照的に、「聖霊に対する 侮辱・冒涜をする者」は決して赦されないと言います。「え?でも聖霊も神であり、イエスの霊でもありますよね?」と思うでしょう。普通に理解しようとした ら単なる矛盾です。なので、私たちはすべての罪は赦されるけど、一つだけ赦されない罪があるんだと考えようとします。でももしそうだったら、イエスははっ きりそのような言い方を使ったはずです。「聖霊に対する罪以外はすべて赦される」などいくらでももっとはっきりした表現もできたはずです。でもあえてこの ようにイエスが言ったのは何故でしょう?しかも「よく言い聞かせておく・・・(アーメン・アーメンというイエスの独特の言い回し)」をイエスが使う時は、 かなり重要なことを言う時です。

簡単に言うと、イエスはこの二つの真実を対照的に伝えようとしていると言うことです。

まとめると、「どんな罪でも赦される、でもどんな罪でも聖霊に対する冒涜は赦されない」ということです。別の言い方では、「すべての罪は赦されることができる、でもどんな罪でも赦されない場合がある」ということです。では聖霊に対する冒涜とは何でしょうか?

そ れは、聖霊が私たちに語りかけ、自分の罪を見せ、悔い改めに導いてくれているのに、それを拒んでしまう時です。その時、その罪がどんなに大きい罪でも小さ い罪でも、私たちが「悔い改める」ことを拒否するのなら、神からの赦しは自分に適応できないということです。神の寛大さが分かっているのに、それに心が動 かされずに、自分の過ちの認識を拒み続けることです。なぜなら、聖霊という神の霊である存在の重要な役割は、私たちを悔い改めに導き、そしてイエスを信じ 彼に栄光を与え、彼に頼り生きられるようにすることです。

イエスがこれらのことを宣言した状況は、パリサイ人達が彼を批判した時でした。 「お前は悪魔の力を借りて悪霊を追い出している」と非難していた状況です。その文脈で、イエスは、彼らの態度を「聖霊に対する冒涜」だとしました。それ は、良いものを悪いとし悪を良しとするする罪の性質、自分の義を盾に本当の自分の罪深さを認めない態度、そして神様の聖霊による自分の中での働きを拒否し 続けることです。そして一番それらができなかったのはパリサイ人達のようなその当時の宗教家やリーダー達でした。何故でしょうか?

最近は私 たちの教会でも、この「悔い改め&信仰」という概念をどちらか片方だけ強調して教えるのではなく、セットでバランスよく教えるように心がけています。しか し、自分も含め多くのクリスチャンは、様々な宗派・宗教背景やクリスチャンとして育ってきた環境で、全く反応や拒んだり葛藤する側面が違うことに気づきま した。

ある人は、「悔い改め」という概念や「罪人」ということを教えの中で聞くだけで、「いや、それはネガティブ過ぎる。私たちは勝利者 だ、神の子供だ。そのアイデンティティーだけでポジティブに生きるべきだ!」と反発します。大概そのような反応をする人々は、教会で良く仕えていたり、比 較的外側でのイメージでは家庭も結婚生活も良く見せることができている、または「クリスチャンルール」をうまくこなせている人々です。もちろんそれらをで きていることは良いことですが、神様はもっと心の奥を見ます。良くあるケースは、現実的には、それらの「パフォーマンス」が自分で作り上げた「義」なって しまっている為に、自分の奥深い罪の現実を受け入れられない問題です。例えば、外側では良い夫婦に見えたが、「実は奥さんが苦しんでいた」、「周りが苦し んでいた」というリアリティーに向き合えない場合が多くあります。彼らは、自分が、イエスなしでは本来罪人であるということに目を見けられません。良い リーダー・牧師、夫・父親として模範となっている自分が自分の自信に繋がっているため、もちろん悔い改めで神だけに頼り、自分で作った自分を捨てようとは しません。よって悔い改めのライフスタイルも生きられていないのです。

私自身もそうでした。牧師やリーダーになっていくうちに、良い模範に なろうと頑張ります。現代の行き過ぎた教会のシステムの中で生きていると、模範として良い結婚、人生をうまく生きている自分、成功している自分、幸せを 貰っている自分を表に出し始めます。そして教壇の上でも、それらはイエスを信じれば与えられるということ人々にを言い始めました。それがあたかも福音の メッセージのすべてであるかのように伝えていたこともありました。でも、「神から幸せを貰うこと」だけが福音なのでしょうか?違います。唯一の神を絶対的 に自分の優先とし、一番愛する存在とすることを心から自然にさせてくれるのが福音の目的です。神から何かを貰う為だけに神を信じるなら、それは神を自分の 利益のために利用しているにすぎません。

本当の福音の概念と悔い改めの基本を学ばされた時、それまで「作ってきた自分」の本当の現実を受け 入れるのが本当に困難でした。パリサイ人のように自分で「義」を装って生きてきたからです。もちろん、たまには正直さを見せるように個人的なこともメッ セージの中で言います。でもそれは自分が罪人で壊れているという自覚と謙遜からではありませんでした。正直なクリスチャンを装う為です。結果、「基本うま くやっているけど、たまには間違いをするんだよね」的な太々しい態度のようでした。結局自分の心がどれ程欺いているのか、自分の罪の性質に向き合ってな かったのです。なので最初は、福音の正しい概念に拒否反応をしました。「信仰」の側面だけを強調して生きてきた自分にとって、罪・悔い改めはネガティブ過 ぎたからです。でもその極端さには落とし穴があります、「自分はそんなに悪い人間じゃない」、「基本的には良い人間だ」と欺き始める落とし穴です。簡単に 言うと、自分は、罪人である自分ががイエスの福音だけに頼り、日々変えられている「キリストの模範」ではなく、「イエスの力を借りれば自分で自分を変えることができるんだ」という本来の福音からズレた模範を作っていました。

Gospel Centered Life workbookより抜粋

前 のブログで上のようなクロスチャートを載せましたが、今回はもうちょっとこの概念を分かりやすく説明している図です。本来、上と下のギャップを埋めてくれ るのはイエスだけであるのに、十分に福音にあって悔い改めていない(下)、そして信じていない(上)ことにより、上下ともにギャップが生まれます。十字架 の力が十分に自分の中で働いてないからです。そうなると、私たちは、「行い」と「ふり」によってそれを埋めようとします。神学的には、「行い」で埋めるこ とを、律法主義、そして下の「ふり」を非律法主義・無宗教主義、現代ではハイパーグレイス(神様の恵みがあるから何でも許してくれる的)な教えもそうで す。アメリカの流行ではこれを極端に強調します。「問題があっても大丈夫よ~」、「すべては益になりうまくいくよ~」しか言わない、単なるポジティブ思考 だけのメッセージです。人間の壊れた性質や罪の現実から目を離そうとします。

福音をしっかり分かっていない時、私たちは「行い(パフォーマ ンス)」と「ふり(俺はそんなに悪い人間じゃない)」を駆使して自分を欺きます。自分もそうでした。そして今でもその葛藤と誘惑はあります。そしてそのシ ステムの中に自分の別の形のキリスト教を作り始めます。影響力のあるリーダーや牧師は、それをこの「パフォーマンス」と「ふり」を使って形上だけの教会も 作り上げることもできてしまいます。でも結果は、アメリカの牧師や教会の統計でも明確です。

アメリカでは、90%の牧師が慢性疲労 症候群に悩まされ、70%は鬱になり、80%が聖書学校を出て5年以内に牧師を止め、毎月1500人が牧会から去っていきます。そうでなければ、牧師とし て教会員をコントロールをしたり、教会のお金を好き勝手し、または無慈悲と恵みのない態度で、脅威になる人々を一方的にイジメたり扱ったりするケースが多 くあります。何故でしょうか?それは、前者は、自分の義で生きている為(パフォーマンス)、疲れ果て、できない自分にいずれ絶望します。後者は同じ理由で も、「義」を表面上作れている自分を掲げ(自分はできているし、そんなに悪い人間ではない)、傲慢になり、それができない人達を基本的に見下すからです。

日 本の場合は、前者のケースが良くあるかもしれません。「悔い改め」、「罪人」という方向だけに、思いと神学が偏り、「信じる(イエスが解決してくれた)」 ことを忘れてしまっているのです。悔い改めから這い上がるために、何とか自分の力で「良い義」をパフォーマンスしなくてはいけないという勘違いをしていま す。そして「行い」すらできずに罪悪感を感じ、信仰が足りないんだと教会ではののしられ生きています。そしてが良く強調する「信じる」という概念を強調す る教えを聞く時、それが単純すぎると感じます。ある意味、「行い」代わりに「神学の知識」を知ることがしばしば自分の「義」になってしまっています。そし て知識を強調する宗派や教えに対して、信仰を強調する側は、それが難しすぎると感じ意見します。面白いことに、前者はの義は「知識」、後者は「行い」が義 となってしまっています。でも両者とも根本的な問題は同じなのです。本当の「悔い改め」を理解して、信仰を適応できていないことが理由です。なぜなら福音 はシンプルかつ深く、明確であると同時に、深くとてつもなく広い奥義(神の神秘)だからです。「行い」でも「知識」だけでもない、全く別物です。世の中に は愚かに見え、それを心底理解する人にとっては最も素晴らしいものです。

「悔い改め」と「信じること」ことは切っても切り離せません。「愛」と「真実」がそうであるように、切り離した途端、本当の悔い改めでなくなり、本当の信仰でなくなります。 本 当の悔い改めとは、罪人である自分を認識し、自分では自分を変えられない、義を生み出すことができないと自覚し、他の偶像に頼り自分と義を作り出そうとし てたことを悔い、神に立ち返ることです。そして信仰によって、福音のメッセージ神がイエスの死と復活を通してすべて私たちがするべき義をすべて与え、それ だけではなく新しいアイデンティティーすら与えてくれたことを信じる事です。このイエスの死にあずかる悔い改めの謙虚さ&復活にある神の子供としての自信 が同時に持てるということです。パウロもそのような態度でした、自分を「罪人の中の最悪な罪人」と自覚もあり、でも「恵みにより今の私は私だ」という自信 と大胆さを持っていました。

聖霊の役割は、「行い」や「ふり」を使い、自分を欺き、自分で存在価値を築き、自分努力中心のキリスト教を作っ てしまっている間違いを指摘して、イエスだけに頼るように導くことです。それを認めさせ、悔い改めさせ、そして信仰により希望を与えることです。そこに は、疲れ果てる生き方はもうありません。自分の行いと努力に掛かっていないからです。同時に傲慢にもなりません。自分の罪深さをトコトン理解しているから です。

聖霊の声を拒み続けるのではなく、それに聞き従いましょう。聖霊が「逃げるな」と言っているときに、人間関係から逃げるのではなく、 その神様のコミュニティーの中で本当の自分を見つめ、神様に愛と恵みで変えてもらってください。聖霊が「赦せ」、「裁くな」と言う時に、その人を赦す行動 に自ら出てください。同時にキリストの愛がなく、「行いとふり」で傲慢な組織や教会のリーダー達に惑わされないでください。もしこれらの真実を分かった上 で、聖霊の声を聴きながら、それでも彼らの声に従ってしまっているのなら、それは彼らの責任ではなく自分の責任です。

聖書の人物たちが、自分に向き合い、悔い改め信じながら生きたように、私たちもそのようにイエスにあって生きれることを願います。

ではまた!


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