引き続き、前回のダビデのストーリーの中から、聖書的な友情について書いていきたいと思います。前回のブログの内容を確認してから今回の内容を読んでいただくと分かりやすいと思います。3週間前にも同じようなメッセージをしたので、時間があれば聞いて見て下さいね。
ダ ビデとヨナタンの友情のストーリーは、歴史的にも有名であり、多くの方が知っていると思います。また自分を犠牲にし、自分が受け取るべき王座を諦めてま で、自分の友の成功を願ったヨナタンのような友達が欲しいと願う人もいると思います。ダビデもヨナタンの存在なしには、決して王にはなれなかったでしょう し、また彼の人生で最悪に困難な時期を乗り越えることはできなかったと思います。
でもなぜ彼らはそのような友情を持てたのでしょうか?なぜヨナタンはそこまでダビデに尽くし、自分の命を懸けてまで友として愛せたのでしょうか?
今回は、1 サムエル記18:1-5、1 サムエル記 20:16-17この二つの聖書箇所のストーリーから真の友情の概念を見ていきたいと思います。
1 サムエル記18:1-5 「ダ ビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。サウルはその日、ダビデを召しかか え、父の家に帰らせなかった。 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビ デに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」
まず最初に、なぜそんなに友達という存在が大切なんでしょう か?ある人は「一人で生きていけるし、人間関係なんて必要ないじゃん」と断言する人もいるでしょう。でも考えて見てください。人間は決して一人では生きて きませんでした。誰にも頼らずに生きてはこなかったのですから。生まれてからあなたを胎から出したのは誰ですか?乳を与えたのは?朝起き、目玉焼きを焼く フライパンは?自分で作ったの?自分一人で生き、フライパンを作ろうと思ったら、鉱山に行って鉄を掘り起こすことから始めるはずです。歯ブラシは?こう考 えて見ると、私たちは必ず誰かに頼り、誰かのおかげで便利に生きてことができています。
創世記という人類の最初の人間であるアダムが誕生し たストーリーで、神は地球や太陽、星、自然界を作ったとき、全てを「よし」としました。そしてアダムまで創造しました。でも突然、今まで「よし(良い)」 としていたのに、急に神の口から「良くない」という言葉が出てきます。それは何でしたか?
それは、「人が一人でいるのは良くない」(創世記2:18)でした。
これは罪が起こる以前に神が歴史上最初の「良くない」とした事です。 また考えて見てください。アダムはパラダイスにいました。必要なものはすべて持っていて、病気もなく、神様との関係も完璧でした。でもその中でも、「人が一人」ということは良い事ではなかったのです。
なぜ神様は、そこまで私たちに「人間関係」、特に「友情」を強調するのでしょうか? そ れは、神様の三位一体という性質自体が「関係」そのもので成り立ち、またコミュニティーという概念として成り立っているからです、父、子、そして聖霊がお 互いに存在し合い、愛し合い、関係しあっているからです。その神に似せられて作られた人間は、一人で生きれるようには作られていません。要は、「寂しい」 という思いは、「弱さ」から来るものではなく、私たちの本来の「完璧」だった性質から来るものです。友達や家族、親密な人間関係があって当たり前なんで す。ダビデがヨナタンの深い友情と愛情なしでは、生き残れなかったように、私たちもそのような友情なしでは、絶対に使命を全うすることはできません。それ どころが、箴言18:1 「離反(孤立)する者は自分の欲望のみ追求する者。」とあります。英語の訳では、「自分を孤立させる者は、全ての良い知恵に対して反抗する」ともありま す。要は、一人で生きていくと、ドンドン変な人になると言うことです。
そして、「友情」という関係は、特にユニークなものです。なぜなら生 まれてから自分が置かれる家族という存在、親や兄弟は選ぶことはできませんが、友情は選べるからです。自分の決意と思いでスタートするからです。結婚もそ うです。結婚の土台は、ロマンスや性的な魅力だけではありません、誓い合う「関係」であり、究極的には「友情」です。結婚生活を過ごしていく中で、人生の 辛い状況を乗り越えさせてくれるのは、ロマンスという部分ではなく、どんな時にもいてくれるという「友情」です。なぜなら、外見の魅力はや性的機能は年と ともに衰えていきます。でも築いてきた信頼と関係は、養われ成長していくからです。
では、その真の友情とは何でしょうか?聖書的な正しい概念は? ダビデとヨナタンの友情から、3つのことを学べます。
まず最初に、真の友情で必要なことは、「誓い」です。
ヨナタンは、ダビデを自分のように愛したが故に、「誓約を結んだ」とあります。 しかも彼ら二人の友情の始まりと、ヨナタンが死ぬ直前にもこの誓いを交わし合って再確認しています。
これはどういうことでしょうか?
この概念を説明するために、現代の一般的な「友情の概念」と比べてみたいと思います。 私たちが住む今日の社会では、友情はビジネスと同じになってしまっています。
簡 単に言うと、「消費者と商人(売る側)」との関係と同じです。消費者は、自分が求める「もの」を提供してくれる限り、その「関係」を持とうと心がけます。 もちろんその商品を得るために、コスト・犠牲も払います。商人も同じく、利益がある限りその関係を続けます。できるだけ消費者側が満足し、買ってくれるも のがある限り、時間を取り、説明し、努力も惜しみません。消費者は、個人的なことも、商品が売れるために関わることであればシェアします。でも一線を引 き、プライベートまでは見せません。商人側も、売るために自分の経験や個人情報をセールスとして提供しますが、本当の心の内は見せません。でも両者とも自 分に対して「得」がなくった時、次の相手に変えます。消費者はもっと良い「もの」を提供してくれる相手をに乗り換え、商人は新たに自分に利益をもたらして くれる相手を探します。
すべての人間関係でないにしろ、世の中の多くの「偽の友情」はこのように機能していませんか?消費者とて、寂しい時 にいてくる、気にかけてくれている、仲良くワイワイしてくれる存在、誕生日を祝ってくれる存在である限り付き合いを続けます。でも、都合が悪くなったり、 自分で作った境界線(一線)を超えて指摘されたり、影響を受けようとしたときに、その関係を捨て、友達を避け、乗り換えます。また商人のように、自分が生 きるライフスタイルや目的に利益となる人間関係は積極的に作ろうとします。その人が持つ能力やスキル、人間関係すら利用できるからです。でもその「利益」 がなくなると新たな「関係」を探します。このようなGIVE&TAKEな関係は、ネットワークによって成り立ちます。決して深い絆のコミュニティーはでき ません。なので表面上は仲が良いかもしれません。そのネットワークに影響力もあるかもしれません。でも都合が悪くなった途端に、距離を置き、関係を切ります。
実は、この考えは、現代の多くの「教会」にも浸透してしまっています。消費者側(教会を選ぶ側)は、自分の利益を元に教会を選びます。 自分の好みのスタイルに合った教会、自分の聞きたいメッセージを語ってくれる教会、またはただそこに仲のいい友達がいるから、コネを作れるからと理由だけ でも選びます。通いやすい立地にあるか、自分が心地よく過ごせる施設やプログラムがあるか、自分が好きなことで仕えることができるか、賛美チームで歌える か、一線を越えない人間関係をもてるか、その教会で牧師やリーダーになれるかで判断します。
商人側(教会の運営側)も、良く仕え、言うことを聞き 従ってくれる人間か、教会の成長を促進できるスキル・能力を持った人間か、人を連れてきてくれる存在か、お金を持ってきてくれるビジネスマンか、ちゃんと 献金してくれるメンバーかを探します。その人が問題を抱え、面倒になったり、用なくなれば、突き放したり、解雇というケースもあるでしょう。または逆に、 メンバーを自分の教会に何がなんでも残させて束縛して、「利益」を失わないようにすることもあります。
もちろんネットワークを築くことや、 ビジネスの関係はその中には必要な事であり、良い事でもあります。しかし、そのような関係を、聖書が重んじる、「誓約」の概念とすり替えてしまった時、教 会が教会でなくなります。事実、それを失った世の中は、「結婚」という概念に混乱し、本来結婚とはどういうものなのかをとうの昔に見失っています。結局、 結婚は、「自分を幸せにするためのツール」でしかなくなってしまっています。そして都合が悪くなると簡単に離婚します。
これとは対象的に、 聖書の時代の友情や家族の人間関係のほとんどは、ビジネスが土台ではなく、「誓約」が土台でした。誓約とは、結婚の概念で見るように、自分の利益が優先で はなく、相手の幸せや成功が優先になります。見返りを求めるためにコストを払うのではなく、完全に自分を犠牲にし、相手の得を願うことでした。どんな困難 や問題があっても共に乗り越えていこうという心構えを持つものでした。なのでヨナタンは、自分の父親にも忠実であったと共に、ダビデにも忠実でした。悪を 行っていた父であるサウルには、臆することなく、「間違っていることは間違っている」とハッキリ言い、その人が変わることを切に願いました。それによって 嫌われることも恐れずにいました。その相手を本当に愛していたからです。
消費者・商人の関係はそこまでしません。なぜなら相手を戒めたりす ることで、嫌われたり、自分に都合が悪くなるからです。また結局問題が起きるのが面倒くさいとなるからです。そのような関係に愛はなく、究極的に自己中心 です。「誓約という土台」と「ビジネスの土台」の違いがあるのは明らかだと思います。もし神様がそのようなビジネスライクな関係で私たち人類と接していた ら、「人間は罪を犯したし、解決するのが面倒だからこの世界から完全に滅ぼそう」となると思います。でも神は、人間との誓約(covenant)を選びま した。しかも圧倒的に、神様に不利な契約でした。でもそれによって、私たちにはイエスを与えられ、救われる道を与えられました。
次に、大切な聖書的な友情は、「正直さ」と いうことです。これは単に、素直になるということだけではなく、自分が傷つきやすい状態にして相手に自分の本性を見せることです。ヨナタンは自分の剣と弓 をダビデの前で渡しました。この当時の戦争と戦の時代では、相手にましてやライバルである存在に、自分の持つ剣を渡すという行為は危険な事でした。相手は それを用い、逆に刺し殺すことも可能だったからです。でもヨナタンは、愛するがゆえに、自分の身の危険も承知で友情を示しました。
本当の友 情は透明性でもあります。自分の弱い部分、相手に知られたら利用されてしまうようなことですら打ち明け相手に委ねることです。相手が先にしたからではなく 積極的にそれをするのです。英語で言う、vulnerabilityです。なので本当の友は、無理に自分を装ったり、強く見せようとはしません。「お互い に罪を告白しなさい」とパウロが言うように、自分の奥底の罪や問題も話し、しかも裁かれることなく、受け入れられるままで、真実を語り解決し助け合える存 在です。「嫌われるんじゃないか?」という不安や恐れがない状態です。なぜならそこには利益や得以上の絆で成り立っているからです。まーナルトのサスケに 対する友情みたいなですね。 笑 ナルトは自分に正直で弱さも自分の問題にも向き合い、周りの相手にさらけ出しながらも、助けを受け入れ、成長していった からです。
3番目は、「魂の一致」です。日本語では、「心と心が結びついた」とありますが、英語ではSOULが使われています。これはどういうことでしょうか?これは、「ええ?あなたも!?実は私も!」という感じで共通する、共感できる部分があるということです。
ダ ビデは勇敢な戦士でした。イエスラエルの殆どの兵士がビビっている時に、神様に頼り勝利を願っていました。同時にヨナタンもゴリアテは倒さなかったにして も、ダビデと同じ勇敢なスキルを持った戦士であり、イスラエルの国の繁栄を心から願っていました。2人とも、次の王なりうるライバル同士でもありました。 また同じサウルという最悪のリーダーの下で苦しむ仲でした。笑 このように、様々な同じような経験や辛いことを通って来た二人でした。一般の世の中だと、 「同じ人生を変えた本」が好きだったとか、「同じような家庭環境だったから家庭という存在は大切」とかかもしれません。もちろん私たちクリスチャンは、同 じくイエスがしてくれたことに心打たれ、福音に感動していることが共通点であり、共に分かち合う土台であるべきです。要は自分にとって一番大切だと思って いる事を共感できる関係です。
この概念から見ると、結婚するときに同じクリスチャンと結婚した方が良いというのも当たり前になります。自 分にとって一番大切な存在であるイエスを、結婚のパートナーと共感し合えないというのは致命的だからです。それをできないことが、「別にいい」というので あれば、結局その人にとって、イエスが一番大切ではないか、まだは本当の友情や結婚のが概念を理解していないことになります。まー現実的には、形上クリス チャン同士で結婚しても、実際には本当に福音を理解していなくて、イエスが中心でなくもっと酷い問題があるというケースも沢山見てきました。2人とも究極 的に自分勝手な利益を求めて結婚している場合も多くあります。またもちろん結婚した後に、クリスチャンになったケースもありますので、そのチョイスが常に ない場合もあります。結局、本当に神様の助けなしでは、しっかりとした関係を持てないのが真実です。
皆さんはこれらの要素を持った友情は持っていますか?そのような結婚パートナーを持っていますか?もちろん本当の友情の要素はこの3つ以外にもありますが、これらが土台となります。
最後に、どうやったらこのような友情を築けるのでしょうか? ヨナタンなような素晴らしい友達にどうしたら巡り会えるのでしょうか?
その答えは、まず相手にとって自分がヨナタンのような友になることです。
ヨ ナタンは、自らそうしました。ダビデがそうしてくれるのを待っていたのではなく、自分からダビデを愛し、自ら自分の弱さをさらけ出し、そして共通点を見つ けました。自分からまず積極的にそのような友達になると決断したのです。もし、私たちが自身が、そのような友達を待っているだけで受け身だったら、結局ビ ジネス関係と同じだからです。結局、自分がそのような友情から利益を求めていることになります。それは自己中です。なので、私たちがまずそのような友達に なれるように目指すことが鍵です。
でもここで問題があります。「私たちにそのような素晴らしい友達になれるか?」ということです。「自分を 犠牲にし、相手の得を常に考え、自分を傷つけやすくし、さらけ出し、どんなことがあっても裏切らずに、忠実に、愛を持って相手の間違いを指摘し、恐れずに 相手を愛し続ける」なんてことは、正直自分にはできないと思います。そうです。できません。
でも、一つ忘れていることがあります。それは、 私たちには、ヨナタン以上の友が既に存在するということです。その友は、私たちが一方的に彼を拒否し、傷つけ、裏切り、最後には命を奪ったにもかかわら ず、彼は愛し続け、その私たちの罪や咎ですら自分で飲み込み、痛みや悲しみを受け入れました。それどころか、本当の王であったにもかかわらず、代わりに私 たちがその立場と祝福を受け取れるようになるために、自分の王座を離れ、人間として生き、本来私たちが受ける罰と死を受けました。私たちを「友と呼ぶ為 に、私たちへの友情にも忠実であり、同時に自分の父である神の計画にも忠実でした。私たちは、イエスを信じる時に、本当のヨナタンである友達を持っている ということです。
そしてそのイエスの友情を受け取り、日々経験し、感動して生きているなら、自然に自分の周りの人間にもそのような友になり たいと思い行動できるはずです。どんなに酷いことをされ、傷つけられたとしても、その相手にとって忠実な友でありたいと思えるはずです。イエスがあなたに そうしてくれたからです。逆に、苦みを持ち続ける、人を避ける、相手を突き放す、利益がなくなった途端友情を捨てているなら、あなたは本当にイエスを信 じ、福音を分かっていないことになると思います。
友情は努力して必死になって見つけるものではありません。福音を心底理解し、それを経験し た時に、自然と自らそのような友として振る舞い、徐々に本当の友達ができていくものです。教会が本来そのような友情を見つけられる場所かと思っています。 ライバル同士だった、または本来だったら敵になるような人々が友情を築く場所です。でも、自分の利得中心で教会というコミュニティーを選び、利益を探して いるなら、決してそのような友にはなれないですし、そのような友も作れません。
今日、本当の友情をイエスに貰ってください。
福音に戻ろう!
ではまた。