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人となった神の言葉


ヨハネ 1:1-5 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。 できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、や みはこれに勝たなかった。」

クリスマスまでの三日間、礼拝でのメッセージの3つのポイントを分解し、昨日からそれぞれブログにしています。本来だったら順番的に機能のよりもこっちのブログの方が先に来るのですが、一度イエスはどういう目的で地上に来たかを知った方が良いと思い、順番を変えました。

この聖書箇所では、イエスは、「神の言葉(ギリシャ語ではLogos)」とあると言っています。「神の言葉が人となる。」という概念は、実はすごくユニークでしかもキリスト教だけが持っている興味深い事なんです。

そ の当時ギリシャ人たちは、神を知るにはLOGOSというある種の「悟り」や「知恵」が必要だと考えていました。それは世界や宇宙の原理や究極的な知恵を知 ることにより神を知り、神に近づけるという考えです。だからギリシャ人はすごく哲学に興味があり研究もしていました。簡単に言えば、神のLOGIC(論 理)を探していたんです。現にLogosはLogicの語源です。

このヨハネの福音書を書いたヨハネは、そのギリシャ人の考えを知り、あえてその神のLogicが人となったという言い方をしました。

皆 さんが、ある人に会いその人を知ろうとするときどうするでしょうか?ある男性や女性を好きになり、その人を知ってみたいと思う時、最初にすることはその人 に会うことです。そこでお茶やコーヒーに誘うかもしれません。でもそこで、1~2時間の間にぎこちなさ過ぎて何もしゃべらずに終わってしまったら❓! そ のあと友達に「その人はどういう人だった?その人を知ることができた?」と聞かれたとき、何もしゃべらなかったら、「その人を知れた」とは言えないと思い ます。ではどうやったらその人を知れたのでしょうか?それは単純にその人に聞けばよいことです。「好きな飲み物は?趣味は?どんな人生の夢、思いがある の?何を憎み、何を愛するの?」と聞いたとき、その人が言う答えという「言葉」によってその人を知ることができます。

イエスはその「神の言 葉」そのものだと言うことです。要はイエスの生涯、生き方、教え、イエスの十字架での死と復活を見たとき、神の感情、思い、憎いもの、愛するもの、怒りを 覚える事、喜び、計画、情熱というすべてを知ることができるということです。ギリシャ人には、これはとてつもなく斬新な概念でした。神は単なるLOGIC や知恵や知識をとして知るだけでなく、その神のLOGICそのものが人となり、触れ、関係を持ち、話し、命ある生きる存在として、出会い、一緒に生きるこ とができるという考えにびっくりしました。

世の中の多くの宗教にとってもそれは同じでした。歴史的に人間は神という存在を、知性と知恵を通 して発見するか、または自然界を通して実際に神の存在を体験しようとどちらかの試みで生きてきました。仏教でも、修行僧は一生懸命自然界の理や、精神の統 一で「悟る」ことにより、神の一部になれるまたは神に近づけると思っていました。また他の宗教では、神の決めた特定の儀式や行いという行動と体験でした。

で もその神を知り、そして体験する両方を、神が人となり私たちが他人を知るように、「関係」を持つことで神に出会えて知ることができるとは誰も思っていな かったのです。5節には、「闇はこれ(イエスという光)に勝たなかった」とありますが、正しい訳では、闇はその存在を「覆い尽くすことはできなかった」と いう表現であり、実は「理解(解釈)できなかった」という意味でもあります。

福音のメッセージは、とてつもなくユニークです。だからある人 には取っては「愚かさ」であり、ある人にとっては「弱さ」だと1コリント1~2ではパウロは言っています。「愚かさ」とは、今まで人間が考えてきた LOGICには合わなかったからです。その理論が否定されてしまう可能性があるからです。「弱さ」とは、人間は自分の努力と力で神を見つけ出し、近づける と思い、自分で自分の成功と祝福をつかみ取れるとして来たからです。自分の努力を否定されてしまうから福音が逆に怖いのです。だからクリスチャンは良くこ う言われます、「神様に頼るのは弱い証拠じゃないですか?」と。

でも、その福音を「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です」 (ローマ1:16)と聖書は言っています。どのように実際に私たちの人生にあって力なんでしょうか?世の中の人は、自分の賢さを自分の存在価値として、生 きている人が多くいます。学歴、博士号、どれ程の知恵と知識、日本では一般常識を持つかどうかで、人を評価します。でも福音を信じ、神に頼る場合は、全く そこに自分の価値を持たなくて済みます。世の中の摂理や神を知っていることが自分の自信ではないからです。でも逆に「神に知られていること」が喜びであり 究極的な自信になります。その自信は神の知恵と愛にあるので、もっと賢い人にあっても絶対に揺るぎません。

皮肉的に、福音は神の奥義である ともいわれ、天使たちですらそれを知ろうとしても知り足りないとされています(1ペテロ1:12)。要は、福音を知ることはすべての世の中の摂理と神への 一番の近道なんです。福音により、世の中への見方(レンズ)が、この世の世界の見方から完全に変えられるからです。

また私たちの多くの人々 は、自分の努力による達成、成功、地位や影響力を誇ります。そしてそれを自分の存在価値とします。どれ程権力やお金を持っているかが基準です。そして持っ ていない人も心の奥では見下します。福音を知る人間にとっては、またそこから解放されます。なぜなら自分で究極的な神に達するという成功をおさめたのでは なく、「神が私に近づいてくれた」という神の努力と神の行動に自信と信仰を持つからです。なので、成功している人を脅威に思う必要もなければ、比べ合う必 要もなくなります。逆に、成功の中でも精神的に感情的にボロボロの状態の人を理解してあげられます。その世の中のプレッシャーから疲れ果てている人に、自 分の努力で自分自身を形成しなくて良いことを教えることができます。本当の自信を手教できます。

簡単に説明していますが、福音がもたらす自 由と開放の力は、こんなものではありません。私たちの心の奥底の問題を手術し、癒し、解決してくれます。でもそれは本当に福音を理解し、その真実と恵みに 頼ることによります。まだどこかで、自分の知識や努力で自分の人生を何とか解決し、人と比べ、他に認められ、それらから幸せと安心を得ようとしているのな ら、まだ福音は心に浸透していないと思います。

このクリスマス、神様の言葉であるイエスを受け取ってください。真の論理であり、世の中の見方であり、自分の存在を示すものであり、真の理解と開放です。

1コリント1:17から2章の最後までを読んで見て下さい。クリスチャンの方々はもう一度福音の意味を再確認し感動できると思います。聖霊が真実に導いてくれることを祈っています!

福音に戻ろう。


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