創世記1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
キリスト教のユニークさは、神様が三位一体という概念を信じていることです。そしてこの神学はクリスチャンにとってとても重要なことです。この概念が私たちの中でズレてしまうと本来のキリスト教とは完全に違ったものになってしまいます。
例えば、キリスト教の信仰は、完全に個人的なものであると同時に社会的で す。イエスの教えにも、全身全霊で神を個人的に愛すると同時に、周りの人々を愛することは同じように重要だとあります。神は唯一の存在(パーソナル)と同 時に、3つ(家族・コミュニティー)だからです。福音を通し、神を本当に愛しているなら本当に人々も愛せるようになるはずだからです。
でも、現実的にはクリスチャンたちも、このバランスからズレて生きてしまっています。
西洋の文化では、クリスチャンの信仰は個人的なものだけだ と考える傾向にあります。それ故、他の人に教会にちゃんと忠実に通っているか、聖書を読んで何を信じているか、祈っているかなどあれこれ言われる筋合いは ないと考えます。個人的信仰生活であり、究極的には神と私なので、私が何を信じようがあなたには関係ないという考え方です。でもこの極端すぎる視点で、聖 書的にもすごく偏った自分に都合の良い捉え方をします。「神は愛の神だから、何でも許される何をしても良い。基本的に自由だ」など、はっきり言うと、究極 的には自分が思いたいように自分勝手な神のイメージを自分で作り、自分の宗教を作り出しているようなものです。またのこの考えに、よくあるエラーは、自分 のビジョンや使命や賜物(っ神様からの能力・スキル)を強調し自分中心の人生中心に教会や環境、神学(何を信じるか)すら選ぶ傾向にあることです。こられ はすべて個人主義から来るものです。
じゃ、逆の極端はどうでしょうか?団体主義?社会主義?それは日本も含めアジアの多くの国の文化に反映 されています。アジアの国では、個人主義とは対照的に、団体行動や「他の皆と合わせる」ことを重んじます。「出る杭は打たれる」という表現通り、できるだ け社会の基準に自分を同調させ生きようとします。日本では、「人さまだけには迷惑かけるな」とずっと親に言われてきたでしょう。上司よりも先に家に帰るな ど、誰が決めたルールでもないのに、タブーになっています。
そしてクリスチャンになっても、その偏った考えを信仰に持ち込みます。教会とい う基準から離れないように、日本人はちゃんと教会に通います。皆が聖書を読み祈っていれば一生懸命、その生き方から外れないように努力します。どんな問題 が教会であっても、できるだけ離れようとはしません。奉仕も自分のスキルや情熱を強調せずに、牧師やリーダーに言われるまで自ら奉仕したいとも積極的には 言いません。いくら不満や葛藤を覚えていても、牧師や教会が決めたことは絶対であり、調和だけは守ろうとします。でも、自分の意見も言えずに、本来決して 見過ごしてはいけない悪も見過ごしてしまいます。そうすると教会やコミュニティーも成長せず、徐々に、恋愛の自然消滅的のように、いつの間にか教会から 人々が減っています。
しかも日本では、もっと厄介です。昔から「協調性」を重んじる文化があると同時に、アメリカや西洋の文化に影響されて きたが故に、個人主義的な自信や個性にも憧れます。そして日本の文化で自分を主張し成功している人々を過剰なほど尊敬します。この複雑な文化で起きてしま うのは、多くの団体、会社、そして教会のブラック化やカルト化です。明確なビジョンを持ち、自分が言うことへの自信と確信を持つカリスマ的にリーダーが言 えば、彼らが間違っていても、いなくとも必要以上に崇めてしまい彼らについていこうとします。そしてその人の周りに、どんどん人が集まり団体や企業、教会 になったときはそのコミュニティーを変えたり離れたりするには遅すぎます。なぜなら日本人は個人主義的カリスマに憧れていると同時に、同調性・協調性の奴 隷だからです。「みんな」から脱出できないんです。
この二つの極端さはどこから来るのでしょうか?どちらも良い側面もあれば、非常に悪い側面もあります。私自身も外国人(西洋人)と結婚して15年になりますが、毎日この2つの文化の間で学ばされています。
ま ず2つの文化の共通点は、両方とも「自分中心」ということです。え?個人主義は分かるけど、なぜ協調性を重んじる私たちが自己中?と思うかもしれません。 でも考えてみてください。なぜ必要な時に、自分の意見をはっきり言い、悪に対してノーと宣言できないんでしょうか?それは究極的には、「自分がそのコミュ ニティーから外れたり、嫌われたくないから」です。自分中心です。要は人は皆、本当の神なしには「自分を守るため」、「自分の反映させるため」の宗教を し、行動しているからです。たまたま、西洋は「自分を主張すること、個性を持つこと」が素晴らしいとされ、アジアは「自分を出さないこと、他者と同調する こと」が、個人・個々として素晴らしいとされているにすぎません。どちらも基本的には自分という同じ動機です。社会に受け入れられたいんです。そしてクリ スチャンとして、福音を分かっていなければ結局そのどちらかの文化の奴隷となっています。そして福音だけが、その究極的な両方の良い側面だけを保ち生きれ るようにさせてくれます。
例えば、福音を通して、「私たちは皆一つとされています」。エペソ4:1-14では、皆唯一の主イエスを持ち、一 つの信仰を分かち合い、皆同じ罪人であるがゆえに、イエスにあって皆同じ救いと洗礼を受けているといっています。皆、唯一であるキリストの体(1コリント 12)に繋がっています。同じ神の国、共同体、福音という文化と価値観を信じ、一致を持っています。同時に、同じ体でも一人ひとりの機能が違い、体として のそれぞれの器官があり、ユニーク(個人的であり個性的)です。
福音にあって、本来自分は罪人であり、他の人の罪を見ても見下したり、「な ぜ俺のように生きれないんだ?」と自分の義やパフォーマンスを誇りません。なのでお互いを裁こうとはしません。誰が器官的に優れているかはどうでもいいん です。同時に、自分の最悪の状態をイエスに知られ、それでも受け入られて、愛されているので、他人から愛されようが嫌われようが関係ないので、必要であれ ば自分の意見をはっきり伝え、悪に対してそれがリーダーであろうと真実を言えます。間違った方向に向かいてしまっているコミュニティーや教会にもです。同 時に、自分が受け入られるための動機では動いていないので、本当に他人や教会のベストを願って行動できます。真実を愛を持ってイエスにある絶対な確信から 言えるからです。もしクリスチャンとして、極端に頭でっかちであり、プライドが高く、または極端に控えめであり、自信がないなど、どっちかの極端に偏って いなら、それは福音ではなく、今までの自分の育った環境や文化そのものの価値観に影響されてしまっていることだと思います。
ここで、極端に偏っているかのテストです。
信仰は基本的に個人的なものと内心思っている場合よくあること:
-教会にほとんど行っていない、または月一などたまにしかいかない。または仕事や自分の都合があると大概そっちを優先して礼拝に行かない。
-なぜ教会は自分の賜物(能力・スキル)を認めてくれないんだと内心思っている。または奉仕したいかどうか聞いてくれないんだと思っている。
-私は、牧師よりも神学やリーダーシップを知っている。自分が牧師やリーダーだったらもっと良く教会を導けるのにと思っている・思ったことがある。
-誰にも教会にちゃんと通っているか、聖書を読んでいるか、祈っているか言われたくないし、自分の信仰生活に対してあれこれ言ってほしくない。
-教会は通っているが、人間関係で面倒なことは基本的に避ける、距離を置く、または問題や辛いことがある度に教会を変えてきた。
-自分の意見が強すぎて皆から嫌われることがある。または周りから冷たいとよく思われる。
-教会で自分が用いられていないと不満。または奉仕で頑張りすぎることがあり良く燃え尽きる。
-とにかくコミットしたり、一つの教会に忠実になることが嫌。または過去に教会や他のクリスチャンに躓いて教会に行っていない。
逆に、自分の信仰をしっかり持たずに、周りに流されている可能性がある場合:
-牧師や教会の言うことが間違っているとたまに思うが、意見をはっきり言えない。
-教会にちゃんと通っているが、教会(クリスチャン仲間)での態度と、普段の仕事やプライベートでの態度が違う。
-クリスチャンじゃない人とほとんど信仰の話はしない。
-教会のメンバーに本当の自分をさらけ出せない。本心を言えない。誰も本当の自分を知らないと思っている。またはそうしてしまったら嫌われてしまうか、教会から追い出されるんじゃないかと言う恐れもある。
-教会や牧師が命令することは、基本的に間違っていると思っていても、平安と衝突を避けるために従う。
-自分の他の教会以外の人と友達がいない。またはほとんど交流がない。自分の教会のキリスト教世界しか知らない。友達は教会の中だけ。教会のイベントだけ。
-神学的なこと伝道やミッション的なことは牧師やリーダーに任せている。あまりそういうことについて自分で確認して考えない。
どうでしょう?もちろん私たちは皆ある程度、福音からズレてしまっています。でも一番危ないことは、自分の「ズレ」に気づいていないことです。ですので、これらのことに多く当てはまってしまう場合は、本当に自分の福音の理解をもう一度見直してください。
最後に、福音をしっかり理解している場合のリストを書きたいところですが、そうしてしまうと皆さんに特定の形やクリスチャンの生き方を提供してしまうことになりますし、福音ではなくルールや基準になってしまいますのでそうしません。でもこのことは言えます。福音には、自由があると共に自分の仕えるコミュニティーに忠実です。失敗や困難も成長のきっかけとしてみる態度を持ち、常に人間関係も和解と修復に持っていこうとします。謙遜さと自信を同時に持ち、本当に必要な時に臆することなく正義を守り、犠牲を払ってでも真実と、不当に扱われる人々を助けようとします。それが憐れみだからです。教会や他のクリスチャンから傷つけられても、常に諦めずに新しいコミュニティーに根付こうというしっかりとした個人的な信仰を持つと同時に、コミュニティーや教会のへの愛を 持っています。
福音を通して、西洋人でもなく、アジア人としてでもなく、土台は「神の国の人」としていきましょう。
ではまた。