マタイ9:16-17 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。 9:17だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。
また聖書個所も、すごく偏った解釈がされ、誤解されている個所です。
「新しい」という概念を新しい教会のあり方、「古い」という概念を伝統的な教会と解釈したり、またはリーダーや牧師がが自分の教会のスタイルや戦略性を正当化させるために、新しい世代と古い世代や若者と年配の人たちなどを指しているという、勝手な解釈が沢山あります。 当たり前のことですが、聖書を読むとき文脈やコンテキスト、または聖書全体のテーマを把握した上で理解しないと、正しい解釈ができなくなってきます。映画の 中の5分だけをみて、映画監督が言おうとすることを判断するでしょうか?したとしてもそれは正しい判断でですか?違うと思います。
ではこの個所のテーマは何でしょうか?同じイエスの発言が、マルコ2:22やルカ5:37でも出てきますが、この個所での共通する状況は、イエスが宗教家た ちが避けていた罪人の「取税人」だった弟子を選び、「汚れていた」と思われていた病人たちを癒した状況です。そこで宗教家たちに批判されたときにイエスは このことを言いました。
簡単に言うと、イエスが言わんとする「新しさ」とは、イエスから来る「新しい命」と「イエスとの新しい生き方」、「イエスから来る新しい正しさ」のことです。そして「古い」とは「宗教家たちの清さ、正しさの見方や価値観」です。
宗教的な人々の生き方は、自分の義(正しさ)や清さをモラル的パフォーマンスと教会や組織が決めて規律を守ることにより自分でそれらを作ります。そしてその 義や清さが侵害され汚されないように、同じように生きていない人たちを避けようとします。だからパリサイ人たちは、イエスは取税人と過ごし、病気だった人々に触れたとき批判し、同じようにルールに従って「断食しない」弟子たちを批判しました。
でもイエスの与える義、正しさ、そして人生(自 分で作るのではなく完全にイエスだけから来るもの)そのものは全く新しいものであり、「古い」宗教的な生き方や価値観、自分を自分の働きとパフォーマンス で救うシステムそのものを破壊します。入れてもその(革)がはち切れるからです。要は、本当のクリスチャンの生き方は、宗教的な生き方と完全に違うという ことです。宗教をやるなら、宗教の革(構成、価値観、システム)でやれば良いということです。でもキリストを受け取るなら、それを受け取る革というすべて が新しくされなければならないということです。なぜなら新し革は、まだまだこれからストレッチすることができ、イエスのしようとしていることに従って成長 していけるからです。その革には、もうただ悪い人と正しい人(自分勝手な人間の基準での正しさ)、汚れた人と清い人(表面形だけ)の違いや基準ではなくなります。
断食する理由も変わります。パリサイ人のような宗教家たちは、自分の義のために断食しますが、本当のクリスチャンは、イエスの福音 の真実(私たちの花婿が取り去られた=本当にイエスが恋しく彼を求めているからという理由)により、自分の義ですらイエスが私たちと罪の代わりとなってに「こ の地上から取り去られた、十字架に掛かった」事実を感謝し、優先順位や心を彼に向けるために、断食するということです。
宗教家たちは、自分の義のために、貧しい人たちに施しをしますが、本当のクリスチャンは自分が貧しい時にイエスに豊かさを与えられたことを知っているがゆえに、ただその憐れみの行動を、貧しい人々のためにします。
宗教家たちは、自分のために弟子を作り伝道しますが、本当に新しくされたクリスチャンは、福音の素晴らしさとイエスに着いていく素晴らしさを体験しているが ゆえに、ただ他の人にも同じ良い知らせと人生を生きて欲しいと思い弟子を作り伝道します。それで断られたり、弟子にならなくても、良い心と謙遜さを保ち、 その人を拒絶することなく、引き続き弟子を作ろうとします。
祈る動機、教会に行く動機、奉仕する動機がすべて新しくなるということです。
山上の教え(マタイ5-7)も同じでした。あの教えは、クリスチャンとそうでない人の人生や生き方を中心に比べてはいません。本当のクリスチャンと宗教的な人々の比較です。「他の宗教的な人々は、こう祈るが、あなた方はこう祈りなさい。皆自分が好きな人だけ愛しているが、あなた方は出来ですら愛しなさい。皆 は自分が人殺しをしていないと思っているが、あなた方が心でも人を避けたり無視してはならない、なぜならそれは人を殺していることと同じだからだ」とイエスは教えます。
要は、宗教の在り方と福音にある人生との違いを、新しいワインと革、古いワインと革ということでイエスは説明しているんです。福音を宗教と混ぜてはいけないということです。でも現実的に、多くのクリスチャンがそうしてしまっています。だから自分の人生がはち切れるん です。だから前よりももっと混乱し、恵みとルールの間で葛藤し、自分の教会の内側と外側の人々とのギャップを作り、自分達とと違う人を避け裁ききながら、 中途半端な宗教としてクリスチャンの人生 を生きてしまっていると思います。イエスが分けているのは、福音を通して謙遜になっている人々と、自分の義を作っている宗教的なプライドで一杯の人々で す。本当に福音を分かっている人々は、自分の義ですら悔い改める人々です。なぜなら自分で作り出した義は結局自分中心なものであり、イエス以外の義では自 分を救えないと自覚しているからです。
完全に福音によって、「新しさ」を受け取ってください。
そして本当の新鮮さと解放を生きて欲しいと思います。
福音に戻ろう。