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理想の人間 A perfect man?


数週間前にメッセージした内容です。

「イエスに出会う」シリーズでのメッセージ。

今回の主人公は、お金持ちの若い坊ちゃまだ。 聖書箇所は、マタイ19:16-26なので一度読んでみてほしい。

今までのペテロやナタナエルのイエスとの出会いとは違い、この男性はイエスを受け入れずに去って行ってしまった例だ。なので今回はなぜ彼がイエスに躓いたのかという事から学んでいきたい。

まずこのリッチマン(金持ち男性)の問題は、豊かすぎたという事だった。彼の両親がお金持ちだったかもしれないが、とにかくすごい金持ちだった。他 の聖書箇所では、統治者だったともあるので、ある意味若くして成功した男だ。現代で言うと、Rich Man Poor Womanのドラマに出てくる、「日向徹」。企業で成功した男かもしれない。しかも彼は日向徹とは対照的で、モラルの部分でもリッチだった。当時の道徳基 準であった十戒もほとんど忠実にこなしていた、ナイスガイ、イイ奴だ。

しかも彼は足りない部分が自分にあると思い、謙遜的にイエスのところまでやって来た、超真面目男。今の社会でいう、3H(高収入、高学歴、背が高い??)を持っていた!現代女性が付き合いたい・結婚したいランキングNO.1になれる男だ。

世の中から見れば、こいつは「理想の男。絶対天国に行ける人間」に見えただろう。だからこそ、弟子たちもイエスの言葉に驚いた、「金持ちが神の国に入るのは不可能なことだ」。

弟子たちは思っていた、「世間からの評判も良くモラル的に良い人で、しかも謙遜で、お金もチャリティーに渡しているこの完璧な男が神の国に入れないのなら誰が入れるんだ??」と。

でもここに本当の福音の要素がある。

こ のリッチマンの問題は、「自分が持っている物、今までしてきた行いが(成功・達成)」が人生の土台だった。別の言い方をすると、それらが彼の救い の道(神の国へ入る道だったのだ)。彼は、クリスチャンになることを単なる「追加要素」としてしか見ていなかった。彼の言葉に注目してほしい、「私に欠け ているモノは何ですか?(足りないもの)」と言ってイエスの元に来た。良い方を変えれば、「私に何を加えれば完璧な人間になれますか?」だ。

このリッチマンは、忠実に人生に良いことを加えてきた。良い育ちに、良い環境、更に良い態度、良いビジネス精神、良いモラル、人々からの良いイメー ジ。彼の部屋に行けば、自己啓発の本やビジネス、リーダーシップの本は沢山並べてあるだろう。整理整頓もしっかり、料理もこなす男かもしれない。女性が 「キャー。」となるような要素は必ず身に付けて来たかもしれない(笑)。

この完璧な男に対してイエスが取る対応はすごく興味深い。 イエスは彼に、なぜ「俺に何が良いことかを聞く?(マルコ10章では、“なぜ私を良い先生と呼ぶ?)」と答え、「良い方はただ一人、神だけだ」と言う。まずここでイエスが言わんとしていることは、「唯一、神だけが良い(GOODな)存在だと知っているか?」だ。

この男は、「自分が良い人間」と思っていた。良いことをしてきたからだ。でもここでイエスがいきなり答えるのは、神以外に良い存在はいない。言い返せば、「人は皆罪を犯し、完璧な人間はいないことを分かっているか?」だ。イエスは初めから彼の問題を見抜いていた。

そこで更にイエスは言う、「律法(ルール)を知っているだろう。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、父と母とを敬え」。これに対して、リッチ マンは言う、「私はそれらのことすべて守って、行ってきました」と。ここで興味深いのは、イエスは一番最初の二つの十戒のルールをあえて言わなかったこと だ。その最初二つの律法は、「神を第一にする事、そして安息日を守ること」だ。なぜだろう?

これは簡単だ。このリッチマンは、最初の二つをできていなかったからだ。 リッチマンにとっての神は、「自分の良い行い」だった。「良い自分になれば救われる」、それが彼の宗教だったのだ。そしてその土台の上に常にまた良いことをのっけて足してきた。 ここでイエスが言わんとしていることはこうだと思う。 「お前は、クリスチャンになり私を信じることを単なる、追加要素(自己啓発)でしか見ていない。でも私を信じることはそんな単純なことではない、むしろすべて人生の基準がひっくり返り、完全に生まれ変わることだ。」 

クリスチャンが信じる「福音」とは、「はい。じゃ、良い人間になるために努力しましょう~。あれこれしてがんばりましょうね~。」という宗教ではな い。全く異質のものだ。逆に聖書はハッキリ言う、「君たちには無理ですよ」と。「みんな自分勝手で罪を犯しているから、実際にしている良い行いやチャリ ティーですら、自分の罪悪感をカバーする為だったり、自分を良く見せようという動機になっちゃっているでしょ?」と。だから救世主が必要なのだ。

リッチマンに言った、次のイエスの言葉は、「お前に足りない物がひとつある。すべての財産を売って、貧しい人に与えなさい。それから俺についてこい」だった。そして男はこれを聞いた途端、凄く悲しみ、去って行ってしまったとある。

こ のような「すべての財産を捨てる」という事をイエスがハッキリ言ったのは、新約聖書でも実はこのリッチマンだけだ。これは単純にお金の問題ではな い。このイエスの言い回しは、「アル中の人に酒を捨てろ」、または「麻薬中毒者に、麻薬を捨てろ」と言うような言い方だった。要はイエスが言っているの は、「お前の中毒(Addiction)は、お前の良い行いがお前の神であり、Addictionなのが問題」ということだ。そしてイエスは言う、「今ま で良いことを守ってきたつもりだろうが、一番大切な戒めである、唯一の神だけを崇拝することも出来ていないじゃないか」と。だからイエスはあえて、最初の 二つの戒めを言わなかったのだ。

俺たちがイエスに出会う時に同じことが起きる。俺たちの甘い考えが覆される。ペテロがイエスと初めて会った時に感じた事と同じだ。本当の神に会うとき、俺たちは自分が小さく、汚く、罪深く見え始める。でも「イエスとの出会い」は、それだけで終わりじゃない。

マルコの書では、イエスは「彼の目を見つめて、彼を愛して言った…」とある。 同じように、イエスは俺たちを本当に愛しているがために、まず 本当の真実と俺たちの中にある本当の問題を見せようとしてくれる。本当の意味で、俺たちに心から変わって欲しいからだ。ここでスゴイのは、イエスは誰にで も、「ついてこい。」という事だ。ペテロもそうだった。ナタナエルも他の弟子たちも。彼らがイエスに出会うことで、どんなに小さく感じ、汚い存在だと感じ てしまっても、イエスは必ず言う、「それでもいい。その状態から俺についてこい。そして俺がお前を変える」と。

実は、リッチマンの問題は、「財産を売って貧しい人々に上げられなかったこと」ではなかった。考えて見てほしい、イエスはペテロやナタナエル、また 他の多くの人々にしたように、このリッチマンの本当の偶像と問題を、愛を通じて見せてあげたのだ。でも同じ状況にぶち当たったペテロや弟子たちは、その後 イエスのついて行くことを決めた。完璧じゃない自分をイエスに預けることを決めたのだ。でもこのリッチマンはできなかった。「捨てることができなかった」 のではなく「イエスに頼れなかった」のだ。

ここにイエスが第二の戒めの「安息日を守る」を言わなかった理由があるかもしれない。 安息とは、「仕事の労苦から休息を取るためのもの」だ。

こ のリッチマンは、まじめな奴だった。仕事もがんばり、一生懸命だったと思う。懸命に良いことをして、常に努力してきた。でもそれをしてきた動機は、救われ る(神の国に入る)ためだった。人々に親切にしたことも、父母を敬ったのも、嘘をつかなかったのもすべて自分の為だった。その努力に終わりはなく、自分の 良い行いの奴隷だった。良いことをすることが自分の存在意義であり、人生のすべてだからだ。もちろんこのような生き方に休息はない。他の人々から見れば完 璧に見えるが、実は心も精神も疲れ切っていく人生だ。ある意味仕事と良いことをしようと頑張るだけの人生の奴隷だ。多くの「良い人々・豊かな人々」が突然 自殺したり、モラルがいきなり崩れたり、または牧師やリーダーですら燃え尽きて、鬱になる理由もここにあるかもしれない。「良い行い・努力」が彼らの宗教 であり、とてつもない重荷になっているからだ。

だからイエスはこの戒めもリッチマンに「できている」と言わなかったと俺は思う。このリッチマンには休息がなかった。ただの週末の休みではなく、霊 的な安息と安心、そして安らぎがなかったのだ。ある意味イエスはこう彼に言っていたと思う、「もうその重荷を捨て、休んだらどうだ?自分の存在意義をそん なものに置かずに、本当の神に置き、そして休息を得て共に人生を生きよう」と。イエスは、「疲れている者は、私の元に来い」と言う。

俺たちも実は、このリッチマンと根本的には何も変わらない。金銭的にリッチじゃなくても、イエス以外の世の中のモノに、自分の価値と存在意義がある 限り、その「モノ」の奴隷であり、そしてそれ自体が偶像(アイドル)なのだ。結局、人間みんな、その「モノ」の宗教をだれでもしている。みんな本当の神の 代わりに、別の何かを神の代わりとして、生きている。ハッキリ言うと人間みんな宗教的なのだ。ある人はお金、ある人は成功そのもの、ある人はこのリッチマ ンの様に、良いモラルが自分の自身の神となり、下手をするとクリスチャン牧師やリーダー達ですら、ミニストリーやリーダーの立場と言う「良いモノ」です ら、神の代わりとなり、それらの奴隷になってしまう。そしてただ「良いことを付け加えていくだけのキリスト教」をしてしまうのだ。もっと危険な事は、これ を「福音」と勘違いして、語り、そして他の人々に、「もっと努力しろ」という宗教を作り出してしまう。

でもそれらの事は全て「自分の努力」が土台であるために、恵みを忘れ、他の人と比べ良い人間・良いクリスチャンだと自負し始め、そしてプライドが高くなり、自分のビジョンや生き方に同意できない人々を押しのけていく。パリサイ人がまさにそうだった。

ニ コデモと言う宗教家もそうだった。律法とモラルのエキスパート。「神様によって、祝福された人生を生きる法則とHOW TO」の専門家。彼がイエスのところに来た時も同じだった。イエスから「教え」をもらうために行ったつもりが、イエスは、「イヤ、教えじゃなく生まれ変わ ることだよ。」と返されて、困惑してしまった?その当時の聖書の専門家・説教師だったニコデモすら、Christianityを単なる追加要素(教え)と 勘違いしていたからだ。更には、「売春婦やヤクザの方が先に神の国に入っているよ。(マタイ21章)」とイエスは言う。

聖書の「福音」とは、人生の足し算的な「追加要素」ではない。宗教や理想、哲学または知恵のある教えですら、単なる追加要素でしかない。

福音は全く違うものだ。良い意味で俺たちの人生の基準を完全にぶち壊し、俺たちのアイデンティティーを完全に変えるものだ。

福音=イエスキリストの良い知らせ。ここから来る恵みと愛により、すべての人生の価値観と生きる目的が覆される。この福音に触れられ、感動させら れ、心が変えられるとき、今まで変えられなかった自分が自然に変わっていく。そして神様や人々に対して、「~しなけれならない」と恐れから、「~したい」 という愛のある与える動機に変わる。何かをもらう為(追加してもらう為)に、神様や教会に仕えるのではなく、神様の国そして人々の人生に何か良いことを 「加えたい」という思いに変わる。

イエスに出会い、そして本当の自分の問題に直面した時、リッチマンの様に逃げないで欲しい。逆にイエスに走って行ってほしい。そしてこれはイエスに しかできないこと。どんなに優れた牧師やリーダーたちにもできない。結局彼らも、ペテロや弟子たちのようにイエスに出会って変えられた人々だからね。]

皆は、本当にイエスに変えられているだろうか?福音が単なる「正しい生き方をするため教え」になっていないだろうか?イエスが単なる人生のおまけになっていないだろうか?まだ自分のする良いことで、神に認められ、愛され、祝福されると思っていないだろうか?

もう一度一番大切なメッセージに戻ろう。そして福音を土台に神様と歩んで行ってほしい。

ではまた。


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